(「人生の最終結論」が間違っている人は本当に賢いのか)
完全な唯物論やあの世を否定する考え方のなかにも、この世だけを改善したり進歩させたりする原理があるけれども、人生の結論として、「この世で死んだら終わりだ」という哲学というか、そうした考え方や宗教的信条を持って生きるならば、「死んだあとは、最終的に、ナイアガラの滝から落ちるような感じになるかもしれませんよ」ということです。
もし、ナイアガラの滝の所まで行って、そこで川が終わっていて、それで何もかもなくなると思っているのなら結構ですし、確かに、川はなくなったように見えるかもしれません。ところが、そこからあと、ドーンッと滝で落ちて、滝壺(たきつぼ)まで落ちて、「まだ下がある」ということになったら、やはり困るのではないでしょうか。
川が終わったら、「滝から落ちるか、そこから飛び立って空に上がるか」という選択肢があるのを知らないということは、やはり、残念ながら「智慧(ちえ)が足りていない」ということです。
「この世的に頭がよいか悪いか」は、学校の勉強とかテストとかいろいろあるので、そういうもので測れるものはあるし、知能検査のようなもので測ることはできるけれども、こうした智慧については、人間がつくったテストで測れるものではありません。いくら、この世的に学校の勉強ができたとしても、「最終結論」を間違っている人の場合、やはり、本当の意味で「賢い」とは言えないのではないでしょうか。
現代においても、まだ唯物論を国是(こくぜ)としている国家はあります。そういう国の大学などで、よい成績を取ったとしても、それは、「その国のルールや人間が決めたことのなかでは、他人よりも暗記力や分析力などは高い」のかもしれないけれども、「結論が間違ったもののなかに生きていたら、その人が本当の意味で賢いのかどうか」は、やはり何とも言えないところがあります。
一部、この世においてはよいこともあるかもしれませんが、全体を間違った方向に導くかもしれないので、こうした「頭のよさ」でリーダーを選んだとしても、残念ながら、多くの人を迷わせる結果になるかもしれないわけです。
---owari---
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