(元軍、再襲来)
元は1279年に南宋を滅ぼすと、80年には日本遠征のための征収日本行中書省を設け、81(弘安4)年、第2次遠征軍が出発した。高麗を出発した東路軍は、蒙古、高麗、漢人の連合軍で兵数4万、船900艘。南中国から出発した江南軍は、宋人中心に10万、3500艘。
東路軍は5月21日に対馬、26日に壱岐を襲い、6月6日に博多湾に姿を現した。しかし、元軍は博多湾沿岸に延々20キロも築かれた石築地(いしついじ)を警戒して、すぐには上陸してこない。
石築地は断面で高さ2m余、基底部の幅3m弱、海外側を切り立たせて敵の上陸を阻む一方、陸側はゆるやかなスロープとして騎馬のまま駆け上れるようになっていた。
石築地の内側で待ちかまえる日本勢の中にはもちろん季長がいた。季長が鎌倉にまで行って直訴した話は有名になっていて、「源平の昔より、坂東武者が双なき勲(いさお)をたてるのは、子々孫々のための所領安堵を願ってこそ。命をかけて戦った者ならば、恩賞を願って当然。それこそが頼朝公以来の坂東武者の生き様よ」と周囲の武士たちは季長に畏敬の目を向けるのだった。
(後退続ける元軍)
停泊する元軍の大船に、肥前唐津の草野次郎経永の一党十余名が2隻の小舟で夜襲をかけた。鈎(かぎ)のついた縄はしごを船べりに投げ上げてひっかけ、一気によじ登る。甲板で見張りの兵が大声をあげた時には、経永らは太刀をふるって元兵をなぎ倒していた。火のついた干し草の束を投げつけると、甲板のあちこちに火の手があがった。元兵があわてて火を消している間に、経永らはゆうゆうと敵兵の首20余りをかかえて、小舟で戻っていった。
肥後天草の大矢野種保兄弟らも、同様の夜襲をかけて、これまた20余の首を持ち帰った。次の日には、伊予の水軍河野六郎道有一党が白昼堂々と元船に乗り込み、元兵をなぎ倒し、敵の一将を生け捕りにして帰ってきた。
相次ぐ奇襲に手こずり、また博多の守りの堅さを知った元軍は、石築地のない志賀島への上陸を図った。ここから潮が引けば陸となる長い砂州、「海の中道」から香椎、箱崎をへて博多に迫ろうとした。そうはさせじと、白砂の美しい海の中道で両軍の主力が激突した。数日後、元軍は志賀島からの上陸を諦めて、博多湾外に去っていった。
元軍が高麗を出発してから1ヶ月半、夏の盛りに、飲み水にも青野菜にも欠乏をきたして、病人が出始めた。東路軍は壱岐に引き揚げた。意気上がる日本勢は、船を出して攻め込んだ。元軍の兵力は4、5倍だが、日本の武士たちが斬り込むと、敵陣はたちまち大崩になる。悲鳴を上げて逃げ、逃げ遅れた兵は武器を投げ捨て、両手を合わせて命乞いをする。
東路軍の主力は高麗兵で、「九州を占領すれば、豊かな田畑が与えられる」などの甘言で集められた者たちである。守勢になると、命あっての物種と逃げ出す。自分の命を賭けても、子々孫々のために土地を守ろう、あわよくば恩賞の所領を得ようとする鎌倉武士たちの「一所懸命」の敵ではなかった。
(神風吹く)
東路軍はさらに西に退き、7月上旬に平戸島にて江南軍10万と落ち合った。元軍は作戦の練り直しのためか、20日以上もそこから動かなかった。7月27日、東路・江南両軍4千数百艘は平戸から東へ約20キロの鷹島(たかしま)に移った。博多まではさらに東へ80キロである。
明後29日出航と決めていた所に、このあたり一帯を根拠地にする松浦党を中心とする日本勢に斬り込みをかけられ、大混乱に陥って、29日出航が不可能になった。死体の始末や、船舶の修理に追われている元軍にあくる30日夜から大暴風雨が襲った。翌朝、大半の船は海に呑まれ、また磯に打ち上げられた。
元軍の幹部諸将は、破船の修理をして早々に引き揚げてしまった。置き去りにされた3、4万の元兵に、数百艘の船で日本軍が襲いかかった。逃げ場を失った元兵は死に物狂いで抵抗したが、日本軍に掃討された。数千人が捕虜になったが、宋人は長い日宋貿易のよしみで命を助けられた。季長はこの残敵掃討戦でも功名を立て、一層の勇名を馳せた。
こうして元の第二次遠征も失敗に終わった。最終的には台風が元軍の息の根を止めたわけだが、それも日本軍の「一所懸命」の守りにより、2ヶ月近くも元軍を海上にとどめたからである。神風を呼んだのは、日本軍の奮戦であった。
(フビライの40年の執念空しく)
フビライは、日本の報復攻撃を恐れて、高麗の防衛を強化する一方、なおも3度目の日本遠征を繰り返し決意し、そのたびに高麗は大量の軍船、糧食、兵員の準備を命ぜられた。
しかし日本遠征により財政が疲弊し、大インフレに襲われ、さらにベトナムや江南での反乱があいつぎ、元帝国は第三次遠征の余力をなくしていく。フビライは帝国の面子にかけても日本に朝貢させようと、度々使いを送ったが、日本が応えるはずもない。
フビライの日本に対する報復と侵略の念はますます燃え盛り、弘安の役の12年後、1293年日本遠征の最後の命令を下すが、一般民衆の生活苦はどん底に達し、一高官が命を賭けて反対したために中止となった。フビライはその年明けに80歳で病没、日本遠征を志してから40年の執念はここに空しく潰えた。
元を後ろ盾にして自らの権力の安定を図った高麗王は、フビライの野心のために日本遠征に協力し、民は塗炭の苦しみを舐めた。和平策に走った宋はフビライに侮られ、国を滅ぼされた後、日本遠征に加担させられた。
わが国が独立を維持できたのは、属国となっても交易して儲ければよい、という声を抑えて、「仁なき交わり」を断固排した時宗の決断と、子々孫々のために命を賭けて戦った鎌倉武士たちの「一所懸命」のお陰である。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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