(現代は「まねをしてもよいもの」が選ばれていない時代)
夏目漱石は、「英文学をいくら読んでも、かつて漢籍を読んだような面白さがなかった」と感じたのは、「現代小説を読んでも、中身のある古典を読んだような面白さがない」と感じるのと同じではないでしょうか。
「そのなかに、哲学なり、人間としての徳を磨くようなものがないもの」、つまり、「社会現象や自分の経験など、いろいろなことについて、文章を連ねて書いただけのもの」を数多く読まされるわけです。
もちろん、言葉の知識や、さまざまな経験的なものは入ってくるかもしれません。しかし、「模倣(もほう)してよい人生かどうか」ということになると、「どうかな」というレベルの文章が、教科書にもたくさん載(の)っています。やはり、ここが問題点ではないでしょうか。
「学問の『学』『学ぶ』という字は、『まねぶ』から来ている」とよく言われているように、まねをしてもよいものを繰り返し覚えては理解することが、人間の生きる道をつくっていくわけです。
したがって、まねをしてはいけないようなことをたくさん教えても駄目(だめ)だし、価値中立的なことばかり教えればよいかというと、それもまた違います。「機械のような人間ができてしまって、結局、人生のさまざまな局面で、どう判断したらよいのかということに対する材料がなにもない」ということになるでしょう。
このあたりに対する判断や価値観が大きくずれてきているのではないかと思います。
例えば、文学賞なども、いろいろなものが出ますが、必ずしも、「文学者だから偉くて、その人を見習えばいい」というようにはなっていません。
あまりにも変わった生活や経験をした人の文章がもてはやされています。つまり、決して、その道をまねしてよいわけではないものであっても、賞が取れたりするようになっているので、このあたりに問題はあるでしょう。
エンターテインメントにしても、ドラマから映画まで、さまざまなものがありますが、やはり同じです。そのなかには、すごく地獄的なものも、天国的なものもあります。そのなかから、「人間の生きる糧(かて)として役に立ちそうなものを選び取っていく」という一工夫(ひとくふう)が、今の時代には、なくなっているのではないでしょうか。
---owari---
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