(今の「学校」には、どのような考え方が必要なのか)
学校に関して言えば、それぞれの学校に方向性があるので、多少の個性の違いがあること自体はしかたがないと私は思います。「ある学校ではよいものが、別のところでは駄目だ」ということもあるかもしれません。それは、伝統から出てきたものであろうから、多少、しかたがないとは思うのです。
ただ、企業には企業理念があるように、学校には学校の建学理念というか、運営方針のようなものが必要でしょう。要は、「それをつくった人たちに、どこまでしっかりした考え方があるか」ということが大きいだろうと思うのです。
学校によっては、そういうことを問わずに、進学実績だけを問うところもありましょう。あるいは、校則をきつくすると、だんだん人気がなくなっていくので、自由化しているところもあります。
ところが、自由にして、放任(ほうにん)に近いところまで行くと、「楽そうだ」と言って生徒が集まっては来るものの、次は、「不良や非行が出てきて、進学実績も落ち、また人気がなくなってくる」ということもあるわけです。今、こうして、さまざまな試行錯誤(しこうさくご)を繰り返しているようには見えます。
学校は、「いろいろな個性を持った子供がいる」という前提があるとしても、相手を理解できない心が悪の発生原因になります。したがって、道徳的なレベルでもよいので、「相手を理解する心」というものを伝えてあげることが大切ではないかと思います。
そうすると、子供たちにも、少しずつ、そうした判断力が身についていくのではないでしょうか。
(「男女が手をつないではいけない」という校則をどう考えるか)
学園を舞台にしたアニメーション映画で、登場する男女の学生が手をつないで歩いているシーンを観て、「映画では、男女が手をつないで歩いているけれども、うちの学園で手をつないで歩いたら、校則違反で怒られるんだ」という声がありました。
映画をつくっている人も、アニメを描いている人もよく知らず、「ああ、そうなんですか」という感じなのでしょう。おそらく、「手をつなぐぐらいは、社会的にも、何ら問題はない」と信じていたのだと思います。
まあ、「風紀(ふうき)を乱す」というのも、どこから乱すことになるのかの判断は難しいですよね?
例えば、「どこで止めておくか」というのが、だんだん厳しくなってくると、“上流”のほうに上がっていって、「何も起きないように上のほうまで締め上げてしまえばよい」というかたちにはなります。あるいは、見て見ぬふりをしているような学校もたくさんあるでしょう。そのように、難しいところがあります。
また、単なる善悪の問題ではない面もあるわけです。それは、「自覚がしっかりしている人にとっては問題がないことであっても、ほかの人がかたちだけまねていった場合、少しずつ下っていくこともある」というところでしょうか。
私も中高で女子生徒と手をつないで歩いた記憶はありませんが、中学校でフォークダンスなどというものがあったときには、ちょっと異常な興奮を覚えたことを記憶していますね(笑)。
さて、現代的に、「それがいいことなのか、悪いことなのか」ということですが、一方では、「奥手すぎて話にならない」という考えもあるかもしれません。東京の私立ぐらいであれば、中学二年生ぐらいになると、“大人の儀式”まで終わっている人も多いと聞いています。それから見れば、高校までの校則で、「手もつないではいけない」というぐらいだと、かなり厳しすぎるでしょう。そのため、人気がなくなるのではないかと心配する向きもないわけではないのです。
あるいは、そのような厳しい校則をつくると、今度は、陰(かげ)の見られないところで楽しむ喜びが出てきたりするのかもしれません。
---owari---
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