(目的だけでなく、「途中のプロセスが正当かどうか」)
キリスト教徒は22億人近くに達しようとしていますし、イスラム教徒は16億人を超えているとも言われますが、どちらも、もうすでに宗教としてはかなり劣化している部分があります。
その劣化した部分を切り離すために、キリスト教は「政教分離」のようなことを行い、この世については、この世の原理で技術的に知恵を持ってやろうとしています。そして、宗教は宗教として政治とは切り離し、家庭的なものや個人的なものにしようとしています。
イスラム教では、まだ「政教分離」をしていなくて、政治と宗教が一緒になっていますが、それにも劣化してきたものがあります。その神の教えというのが、1400年も前の教えだと、現代では通じないものがあるからです。
イスラム教徒の大多数の人は、「イスラム原理主義的なテロリズムと、イスラム教とは違う」という考えをもっています。
しかし、イスラム教には、ムハンマド自身が武器を取って戦い、いったん追いやられたものを、押し返して再占領してメッカまで占領して国を取ったことにより国教のようになり、「宗教」になったところがあります。そのため、かたちだけを見れば、毛沢東が国を建てたことと変わらないところがあるのです。
毛沢東は国を建てて、「革命は暴力によって起きる。革命は銃口から起きる。銃で人を殺すことによって革命は起きるのだ。だから、結果がよければ手段はこだわらなくてもよいのだ。目的が正しければ手段はよいのだ」というようなことを言っています。
イスラム教の場合、そのように言っているわけではありませんが、「一神教、唯一の神アッラーのためならば、途中の過程は何でもよいのだ」と考えるところがあることはあるのです。
その過激派だけではなく、現にある一般のイスラム教徒も、その過程、「正当な政治の実現や経済の実現、社会正義の実現のためのプロセス」を大事にしなくてはいけません。
これに関しては、「英米あるいは欧米の人たちの近代の考えのほうが進んでいる」と明らかに思えるので、多少、これは考え方を改める必要があるのではないかと思います。
こういう「近代的プロセスの重視」が必要でしょう。「原因があり、プロセスがあって、結果がある。原因と結果だけではないのだ。また、手段と目的だけではなく、『途中のプロセスが正当かどうか』ということもあるのだ」ということを知り、少々ここはイスラム教も考えを変えていかなければならないのではないかと思います。
それから、日本神道においては、いろいろな教えがあることはあるのですが、教えが明確には分からないために、仏教に依拠(いきょ)しながら、その教えを取り入れた面もあります。
ただ、中国の道教や仙術(せんじゅつ)、修験道のようなものも入ってきて、このあたりが「裏側」の源流にはなっているので、もう一回、日本の霊界も正しい真理観に基づいて少し整理し直し、みな本来の秩序に就(つ)いてもらわないといけないのではないかと思います。
---owari---
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