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殺戮(さつりく)より活用を心がける秀吉の弱点は庶民出にある

2024年05月12日 | 歴史
⑤今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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宗久(そうきゅう)*1はわれにかえり、おのれの失言に気づいた
彼は若年の頃から戦乱のうちで生きてきたので、度胸はすわっているが、独裁者の衿持(きょうじ)に触れたときのおそろしさも、充分承知している。

「愚老が年甲斐ものう、つまらぬことを口走り、お耳をけがせし段、平に御容赦召されませ。つい尊師紹鴎(じょうおう)*2一閑居士より相伝いたせし茶の湯の習いを、思いおこせしゆえにござりまする」
秀吉は宗久が詫びると、たちまち態度をやわらげた。

「宗久老人の茶湯巧者なるは、信長公がながらくお引きたてありしごとく、宗易(そうえき)*3よりはるかに長老でやあらあず。この先茶湯の教えをいろいろ請わねばなるまいでや。道具目利きにも、はたらきを頼むことにもなろう」
他人の気分を傷つけることをはばかり、座を明るく盛りたてようとするのは、秀吉の天性である。

だが、彼は不遜の態度をあらわした宗久を、許したのではなかった。
彼は宗易に声をかけた。
秀吉の険しさをひそめたおだやかな口調は気味わるい。

「宗易よ、宗久老人は紹鴎より相伝の茶の湯のならいが、身についておるそうな。儂(わし)は紹鴎直伝の古式の台子の点前が、おそろしきばかりの難事なりと聞きつつ、この眼にて見しことがない。このたびこそは、しかと見届けたきものだでのん」
宗易は、秀吉の胸中を察していた。

秀吉は信長亡きあとの天下を動かす大器量人であると、宗易は見ている。信長と同様に、徴底した合理主義者であるが、その性格には独特の滋味(じみ:うまい味わい)があった。

降伏する敵を許すのみでなく、敵といえども才幹を認めた相手は、手をつくして味方につけ、人材活用をこころがける。殺戮はできるだけ避けて、武略よりも政略により、天下統一の基盤をかためていこうとする、諸侍を安堵させるに足る寛容の徳をそなえていた。

彼は中世から近世への過渡期に、荒鍬(あらくわ)をふるい、混沌とした前途を開拓した信長の時代が過ぎたのをいちはやく見抜いた。諸人の才に守りたてられ、おのれの甲羅(こうら)に似せたやりかたで政権を確立しつつある秀吉の政事には、狂い、緩着(かんちゃく)というべき布石がなかった。

ほとんど完璧といっていい、冷静な判断力の持主である秀吉がただひとつ、他人に触れられて感情を波立たせる弱点は、侍の子ではなく、庶民の出身だということである。

宗易は、宗久が秀吉の触れてはいけない禁忌(きんき)を、逆撫でしかけているのを知っている。
紹鴎相伝の見識をロにするのは、信長の茶頭第一であった自らの過去を誇示することになる。
それは、信長の意思のままに易々として動いていた昔を、秀吉に思いださせることになった。
秀吉は、茶の湯政道は楽しみつつ諸人と融和し、敵をも籠絡(ろうらく:他人をうまくまるめこんで、自分の思う通りにあやつること)してゆけばよいものと思っている。

(小説『夢のまた夢』作家・津本陽より抜粋)
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*1宗久(今井宗久:堺の商人・茶人。千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた)
*2紹鴎(武野紹鴎:堺の豪商、茶人)
*3宗易(千利休のこと:茶道の大成者、法名は宗易)

---owari---
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