16歳の美少年、天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)を総大将とした島原の乱は、反乱軍3万7千人全員が一人残らず殺戮(さつりく)される史上最大の悲劇的な結末で終わっている。
天草四郎は神童としてキリシタンから信望を集めていた。そのため島原の乱は、宗門弾圧に苦しむキリシタンの反乱といわれる。しかし内実は、農民一揆の色合いが強かった。また豊臣方浪人の最後の反乱という側面も見逃せない。このように、徳川体制の根幹を揺さぶるいくつもの要素をはらんでいたのである。
乱は1637年10月~翌年2月にかけて起こる。1615年の大坂夏の陣が終わり、幕府体制がようやく整ってきたころのことである。幕府はこの反乱に対し、容赦ない討伐に乗り出す。
同時に討伐に駆り出された諸大名も必死だった。三代将軍徳川家光は夏の陣後、大名統制を大胆に進めていた。家光に取り潰された大名は外様(とざま)を中心に実に四十八。外様大名の生き残りは死活問題になっていた。討伐に招集された各大名は、手柄を立てる一大チャンスに、われ先にと進軍した。
舞台となった島原藩の松倉氏、唐津藩の寺沢氏はともに外様大名。もともとキリシタン大名領地だったこの地には開幕後に藩祖となった二人だった。どちらも厳しい年貢の取り立てとキリシタン弾圧を行った。
幕府の歓心を買うためにやったことだが、圧政の犠牲となった領民こそ、いい面の皮である。このことが領民を追い込み、一揆に駆り立てることになった。
島原で一揆の狼煙(のろし)が上がったのは1637年10月25日。海を挟んだ唐津・天草地方の農民がこれに呼応。かくして島原の乱は起きる。島原、天草を合わせ実に3万7千人が蜂起(ほうき)。一揆勢は島原城、唐津・富岡城を激しく攻め立てた。
11月9日、家光の直命で鎮圧隊4万5千人が出動する。島原・天草の農民たちは廃城になっていた原城に立て籠もり応戦。この段階で、一揆は幕府相手の反乱へとすり替わっていた。一揆指導者の中に潜む豊臣方の浪人たちが巧みに農民を扇動し、怒りのホコ先を幕府に向かわせたからである。キリシタン農民たちも、生きて地獄のような生活に苦しむよりも、殉職の道を選ぶことを決め、籠城戦に臨んだ。
1月1日、幕府軍は総攻撃を開始する。しかし、一揆勢の激しい抵抗にあい、敗退。幕府軍の大将、板倉重昌は戦死してしまう。1月4日、幕府は老中松平信綱を新大将に、12万4千人の大軍を動員、原城を包囲する。信綱は長期戦で兵糧攻めの策を取った。そして反乱軍の食糧、武器が底をついた2月27日、総攻撃体制に入る。
反乱軍の必死の防戦も空しく28日昼、原城は落城。手柄に焦る鎮圧隊によって29日までに幼児も余さず老若男女3万7千人すべてが殺されてしまう。
島原の乱は領地藩主、一揆指導者、討伐軍のいずれもが、かつては豊臣方にいた武将・武士だった。徳川体制下に生き残りをかけたそれぞれの立場がそこにあった。3万7千人皆殺しという史上稀な戦乱の結末の背後には、巧妙な徳川体制に引き裂かれた豊臣残党の姿があったのである。
こうした、武士の思惑の狭間の中で、反乱農民全員が殺されるまで逃げることなく原城に立て籠もり続けたのは、まさに信仰が成せる奇跡のわざだったといえるのだろう。
---owari---
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