ペリーを大いに驚かせたという伊能忠敬(いのうただたか:1745~1818年)が作成した「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)は、ほぼ完璧に近い正確さで作られていた。
伊能図と現代の実測の違いは、本州の最も幅の広い能登半島の北端から静岡県御前崎の南端までの間で16メートル程度の誤差しかない、という。これは、一万分の一の縮尺率の地図でいうと0.16ミリの誤差。
現在の国土交通省が近代的測量機を利用して作成した地図とほとんど同じと言っていい正確さなのだ。ペリーならずとも、現代の我々からみてもやはり、驚きに値する。
一体、伊能忠敬はどんな方法で地図を作ったのだろうか。忠敬は測量するのに歩幅を基本として行っている。極めて原始的な手段といえるが、忠敬は数人の人夫とともに全国の海岸線を実際に歩いて測量したのだ。
忠敬は測量の旅に出る前に、正確を期すために一年間歩測の訓練を行ったという。絶えず江戸の町を歩いて足を鍛え、同時に測量の実習を繰り返し行った。歩測は最も手軽で最も頼りになる方法だったのである。
そして、より精度を高めるために、北極星を目標にした定点三角測量も利用した。夜はもっぱらこの天体観測に時間を費やしたという。こうして得られた数値から海岸線を割り出し、地図の基になる原図を書き込んでいった。
測量に要した時間は、1800年から17年間、旅行日数は延べ3736日に及ぶ。陸上測量距離43708キロは、実に地球一周に相当する長さである。忠敬が56歳から72歳の間に行った偉業だった。
こうして作られた伊能図は、大図(三万六千分の一)、中図(二十一万六千分の一)、小図(四十三万二千分の一)の三種があった。この縮図の作成には、忠敬の妻、お栄の少なからぬ尽力がある。
旅先から忠敬が江戸に送った原図を受け取ると、お栄は、大図、中図、小図に縮尺する作業に没頭したという。まさに、夫婦二人三脚である。
こうして、正確無比の伊能図は1821年7月に完成する。それは、伊能忠敬が亡くなって三年後のことで、彼の弟子たちの尽力によるものだった。
---owari---
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