(神武東征の経過と戦のレベル)
さて、船で東進してきた神武は、最初は西側から攻め入ろうとしたのですが、そのときに*長髄彦(ながすねひこ)に“ブロック”されます。近畿地方のトップである王様(邇藝速日命:にぎはやひのみこと)は別にいましたが、長髄彦が大将軍だったので、これにブロックされ、その際、神武の長兄(ちょうけい)の五瀬命(いつせのみこと)は流矢に当たり、命を失っているのです。
実は、神武は四人兄弟の四番目でした。当時、男四人で出陣(しゅつじん)し、ほかの兄弟は戦死して、四人目が生き残ったので、かなり激しい戦いだったことが分かります。要するに、皇位継承者である上の三人が亡くなって、一番下である神武が生き残り、即位したというわけです。
さて、西側から攻めても勝てなかった神武は、紀伊水道を渡って三重のほうまで回ります。そして、三重の沖でも海戦を行い、これを制して三重から上陸し、伊勢神宮がある方向から、大和の地を攻めました。
なぜ、そうしたかというと、「先の戦いで敗れた理由は、太陽に向かって戦ったことだ」と考えたからです。
当時、すでに天照大神への信仰があったので、「お日様に向かって戦ったから負けたのだ」ということで、グルッと反対側へ回り、お日様を背中のほうにして戦ったら、今度は勝ちました。
「孫子(そんし)の兵法」にも、「太陽を背中にして戦え」と書いてありますが、当然ではありましょう。相手は眩(まぶ)しいので、太陽を背にしたほうが有利になるのは当然です。そのため、東に回って、三重の方から攻め上り、この地へ来て、勝ちました。
なお、長髄彦については、「その戦いで戦死した」という説もあれば、「王様が降参したので責任を取って自決した」という説、あるいは、「殺された」という説もあります。一部には、「津軽まで逃げていった」という説まであり、ある津軽の歴史書(東日流外三郡誌:つがるそとさんぐんし)には、「長髄彦の一族が津軽まで逃げてきた」と書いてあるので、諸説紛々(しょせつふんぷん)という状況ではあるのです。
また、神武の時代の戦い方としては、船も使いましたが、弓矢を使った戦い方もしていました。さらには、鏡のようになる盾(たて)も使っていたようです。金属製の盾を使って、太陽の光を反射させ、目眩(めくら)ましをしたりもしていたらしいのです。
当時の日本は、今、言われているように「縄文式の土器しかつくれなかった」というレベルの時代ではなくて、中国の「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」の時代程度の戦(いくさ)が十分にできるぐらいのものはあったのではないかと考えられます。
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*長髄彦:大和地方の豪族の長。神武天皇の兄である五瀬命を撃退するも、後に神武天皇に敗れる。神武伝説中の最大の仇役(かたきやく)として後世にその名を遺した。
---owari---
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