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日本ならでは!流行の発信源として歌舞伎に熱狂した江戸庶民

2018年10月31日 | 歴史

イギリスでシェイクスピアの「ハムレット」が初演された年の翌年(1603年)、わが日本の京都では演劇史上に永遠に記録される一つの“事件”が起こっている。

 

出雲大社の巫女と称する阿国(おくに)率いる女一座が、神社や河原で芝居仕立ての舞踏劇を演じて大評判を取ったのである。なによりも、踊る阿国の風体が変わっていた。当時、若い男たちに人気だった髪形や華美な服装を取り入れ、首には十字架のネックレスまで下げていた。

 

京童(わらべ)たちはこの異様な男装に驚き、変わった行いをする、早く言えば「イカれたやつ」という意味の“傾く(かぶく)”をもじって、阿国の踊りを「傾き踊り」と命名。今に伝わる「歌舞伎」の嚆矢(こうし:物事のはじめ)となった。

 

阿国の成功で、「傾き踊り」を真似する集団が各地で登場した。とりわけ、春をひさぐ遊女たちにもてはやされ、ために風紀は大いに乱れた。1629年、これを見兼ねた幕府が取り締まりに乗り出し、女芸人の興行を一切禁止してしまう。現代の歌舞伎が、女の役に女優を使わず、女形が演じるのはこの時からの伝統だ。

 

以来、1891(明治24)年に新派の舞台に女優が登場するまで、実に262年間、女役者は公認の劇場に出ていない。

 

その間、男社会の総合芸能、歌舞伎は世襲制度という閉鎖社会の中で磨かれ、都市型大衆演劇の華として独自の文化を築いていくのである。

 

江戸文化が爛漫と花開いた文化文政時代には、一日に千両の金が落ちる場所が江戸市中に三つあった。日本橋の魚河岸と浅草新吉原の遊郭、そして魚河岸近くにあった芝居町である。芝居町では「市村座」「中村座」などの歌舞伎を見せる芝居小屋が軒を連ね、大勢の見物客でにぎわった。

 

芝居見物はまぎれもなく江戸庶民の最高の娯楽だった。大多数の庶民には、頻繁に芝居に通えるほど金銭的余裕がなかったからだ。

 

しかも、現代のように移動するための電車や車があるわけでなく、時間的にも何かと制約があった。それだけに、最高の娯楽の提供者たる人気俳優に寄せる庶民のあこがれは、現代のアイドルタレントの比ではなかった。

 

全盛期の芝居の影響力がどれほど凄かったか、たぶん、現代の人には理解できないに違いない。娯楽の少ない当時、芝居小屋は様々な流行の発信地だった。人気役者の着た衣装の柄はたちどころに市中に氾濫する、しゃべったセリフに登場する飲食店などは翌日から大繁盛する。役者絵や浄瑠璃本は飛ぶように売れるというありさまだ。

 

下級武士の年棒が三両一分、下女奉公が二両に時代にあって、人気役者はなんと千両を超える年棒を取っていた。「千両役者」の言葉はこれに由来する。彼ら人気役者は、一本の映画で数十億円の出演料を取る現代のハリウッドスターに匹敵する報酬を得ていたのである。

 

興行主にすれば、それほど高額なギャラを払っても十分見合ったのだ。この「千両役者」のエピソードひとつとっても、江戸時代の歌舞伎がいかに隆盛を誇っていたか、お分かり頂けるはずである。

 

---owari---

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