私たちは、肉体の死によって滅んでしまうわけではありません。肉体には魂が宿っており、死後は、その魂が肉体から離れ、あの世へと旅立っていくわけです。
ところが、通常、自分が死んだことが、なかなか分からないのです。もちろん、亡くなって、その日のうちに、さっと肉体から出ていく人もいますが、普通の人は、自分が死んだことが、すぐには分かりません。そこで、しばらくは、病気の延長のようなつもりで、肉体のなかにいるのです。
そして、周りの人が、「ご臨終です」とか、いろいろなことを言っているのを、「まだ生きているのに、おかしなことを言うなあ」と思って聞いています。
ときどき、まぶたを開けたり閉めたり、ライトを当てたりされるので、「何をするか。まぶしいじゃないか」と本人は言っているのですが、「反応がありません。もう瞳孔が開いています」などと言われるわけです。
あるいは、「心臓が止まりました」とか言われるので、自分の胸に手を当ててみると、まだ心臓は動いているのです。
これは心臓の霊体がまだ動いているからなのですが、「あれ、おかしいな。心臓が動いているのに『止まった』と言っている。この医者は誤診をしている。『脳波も停止しました』なんて、大変なことを言っているけれども、現に脳が一生懸命に活動している、何を言っているのだ」というように思うのです。
このように、通常は、「自分はまだ生きている」と思っていて、死んだことの自覚がありません。周囲の状況を変に感じるのです。
そのうちに、やがて「ご臨終です」と言われ、家族がおなかの上に寄りかかって泣き始めます。
本人は「今ごろ泣かれても困る。元気なときに泣いてくれないと。そんなに泣くなら早めに泣いてくれ」などと言っていますが、どうやら思いが通じていないようであり、また、「おかしいな。体が動かないな」ということもあり、不思議な感覚なのです。
その日は、お通夜や葬式の準備で、いろいろな人が集まってきたりするのですが、ある程度よく分かっている人だったら、「どうやら死んだかもしれないし、死んでいないかもしれないし」と、しばらくは、もうひとつよく分からない感じがします。
一方、自覚がまったくない人は、「まだ生きている」と信じているわけですから、「みんながおかしくなった」と思うのです。
そして、いよいよ、お通夜や葬式が始まり、自分の写真が額縁に入れて飾ってあったりするのを見て、「もう勘弁してくれよ。嫌だよ。まだ死にたくないよ」などと言っているのです。
その間、魂は肉体を出たり入ったりしています。まだしばらくは家のなかにいて、ときどき、屋根近く、あるいは天井近くまでフワッと浮いていき、下を見て何だか怖くなって、また戻ってみたりとか、そういうことを繰り返しているのです。
人間の後頭部には、銀色の細い線で魂と肉体がつながっているところがあります。それを「霊子線」と言います。これが切れないかぎりは、魂が肉体に戻ってくることがありえうるのです。しかし、これが切れたときは、もう二度と帰ってくることができません。
そのようにほんとうの意味での死は、肉体が機能を停止したときではなく、通常、それから一日ぐらいはかかるものなのです。
霊子線の存在は、古くから世界各地で知られ、『旧約聖書』やソクラテスの時代の書にも記述がある。また、日本では、古来、「魂の緒(たまのお)」とも呼ばれています。
死にたくないと暴れている人の場合には、もう少しかかることもあります。「死後硬直を起こし、折りたたもうとしても何としても曲がらず、棺桶のなかに入らない」ということがありますが、これなどは魂のほうが暴れている証拠なのです。「まだ死にたくない。このなかに入ったら、もう焼かれるから嫌だ」と頑張っているわけです。
こういう場合は、なかなか難しく、火葬場で焼かれ肉体がなくなってからも狂乱している人がだいぶいて、家に戻ってきて家族に抗議しているのです。「君たちは血も涙もないやつらだ。俺が死ぬのが、そんなにうれしいのか。そんなに早く殺したかったのか。一カ月でも二カ月でも、ちゃんと看護すべきだ」と抗議したりしています。しかし、家族には聞こえないのです。
なかには、自分が死んだことは知っているのですが、「死んでから後のお葬式に至るまでの手順や作法が悪い」と言って抗議する人もいます。「手を抜いた」とか、「お金を惜しんだ」とか、いろいろなことで文句を言う人がいるのです。
---owari---
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