考古学、神話学、古文書研究を綜合して、日本国の始まりに関して画期的な学説が提案された。
(共通の宗教・文化・交易で平和的に結ばれていた縄文集落群)
日高見国の存在について、田中教授は文献学、考古学、現存する神社の研究などから、膨大な論証をされているが、ここでは素人にも分かりやすい何点かのみを紹介しておこう。
まず考古学的考察として、気候が温暖だった約5千年前の縄文中期には人口が東日本に集中しており、人口比では東日本100に対し、西日本は4弱に過ぎなかった。また縄文時代の集落は三内丸山遺跡に見られるように、500人前後の人々が狩猟、漁労、採集をして暮らしていた。そのような縄文遺跡は甲信越から関東・東北に密集していた。
それらの遺跡は地理的に連続的しているので、道でつながり、互いに連絡し合い、物資の交換が行われていたと考えられる。この事は青森県の三内丸山遺跡から、北海道や長野、新潟産の黒曜石の飾り石などが見つかっていることからも実証されている。
縄文土器も関東・東北・甲信越あたりから大量に出土している。太陽信仰につながると考えられる石を環状に並べた遺跡(ストーン・サークル)も、東北・関東に数多く見られる。
同時に縄文時代はきわめて争いの少なかった時代と推定されている。発掘された人骨のうち、何らかの武器の攻撃を受けた痕跡があるのは1.8パーセントで、欧米やアフリカでの10数パーセントよりは1桁少ない。
すなわち、縄文時代の東日本の集落は何千年もの間、共通の文化・宗教を持ち、互いに連絡・交易をし、平和裡に共存していた。従って、それらの集落が連合して、一つの祭祀国家として発展していったと推定することは、きわめて合理的な学説なのである。
(神話と神社縁起が語る東国の祭祀国家)
日高見国の中心が、現在の茨城県鹿島地方にあったと推定される根拠が、神社縁起などに見られる。『延喜式』にある「延喜式神名帳」を見ると、江戸時代まで皇室と関係する「神宮」は、伊勢の神宮の他には、「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)と「香取神宮」(千葉県香取市)のみである。三つのうちの二つが関東にあり、しかもこの二つは伊勢の神宮よりもはるかに古い。
鹿島地方は6,7千年前の縄文前期からの土器や遺跡が多数見つかっており、古墳も559基もあり、かつ鹿島神宮の東南2キロの処には、鉄を流した残滓(ざんし)が地表を覆っている製鉄遺跡まである。
鹿島神宮に祀られている建御雷神(たけみかづちのかみ)は、「高天原」に成った最初の造化三神の一柱であり、天照大神よりも先に生まれた高皇産巣日尊(たかみむずびのみこと)に命ぜられて、香取神社に祀られているフツヌシとともに、「出雲の国譲り」を成し遂げている。
さらにその娘が、天照大神の子・天忍穂耳尊と結婚して生まれた皇孫・ニニギノミコトが「天孫降臨」の主人公となる。天孫降臨に随行したアメノコヤネは中臣氏(後の藤原氏)の遠祖であり、香取神宮に祀られている。大和最大の神社・春日大社も鹿島神宮と同じく建御雷神を祀っている。
ニニギノミコトの四世孫が神武天皇であり、東征においても、建御雷神が高天原から剣を送って助けた。神武天皇は即位の年に、はるばると使いを鹿島に遣わして、建御雷神を祀っている。
こうして神話や神社縁起を見ても、鹿島地方を中心として東日本を統治していた日高見国が、西日本を治めるために天孫降臨から神武東征までを実行した、というシナリオを支持しているのである。
(「日高見国」を記した文献)
この祭祀国家が「日高見国」と呼ばれた形跡が、文献にも残っている。まず、『日本書紀』の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の陸奥における戦いのあとの描写では「蝦夷(えみし)すでに平らぎ、日高見国より帰り、西南常陸を経て、甲斐国にいたる」と書かれている。
第12代景行天皇の皇子・日本武尊の頃には、主要な部族も大和地方に移住し、日高見国は衰えて、一地方となっていたようだ。
『常陸国風土記』には、「筑波郡茨城の郡の七百戸を分かちて、信太の郡を置く。此の地は、本の日高見の国なり」という一節がある。常陸(ひたち)とは「日立」すなわち「日が昇る」という意味であり、また日高見道(ち)が語源と成っている可能性もある。地名としての「日高見」は現在の日高、日田、飛騨、飯高、日上、氷上などと関連していると思われる。
平安時代につくられた『延喜式』に定められた祝詞には、日本全体を示す際に「大倭日高見国」という言葉が使われている。『旧唐書(くとうじょ)』という中国の歴史書にも「大倭日高見国」という名称が頻出する。大倭が西日本を治める大和朝廷、日高見国が東日本を治める国、ということで、両方を足し合わせて日本全体を意味したと考えられる。
「日高見」とは「日を高く見る」という意味だ。鹿島地方は房総半島の東端で、太平洋から上る朝日を真っ正面に仰ぐ土地である。太陽信仰から考えても、この地が東日本の中心として、朝日を仰ぐ聖地であったことは当然と思われる。その後の「日本」という国号にもよくつながっている。
(我々の国家の始まりは、国民全体の問題)
以上のように、縄文時代からわが国には「日高見国」があり、それが大和朝廷の母体となったという田中教授の学説は、考古学、古代文献、神社研究などを綜合したものであり、氏の著作では、ここで紹介したものの何倍もの論証がなされている。
これに比べれば、邪馬台国と卑弥呼に関しては、すでに千冊ほども本が出されているというが、「総合力を欠いた研究方法」の典型としか思えない。研究材料は『魏志倭人伝』というごく短い文献だけである。邪馬台国の場所に関して、いまだに畿内説と九州説があることから分かるように、何ら確たる物証も発見されていない。
田中教授によれば、卑弥呼に関連すると考えられる神社もなく、日本書紀や各地の風土記にもそれらしき記述はない。そもそも『魏志倭人伝』の記述には、「顔や身体に入れ墨をしている」「衣は夜具の布のようで、その中央に穴をあけて、そこから顔をだしている」「牛馬はいない」などと、当時の日本の生活習慣とは矛盾した部分も少なくない。
要は、日本に行ったこともない人物が、本人にはどうでも良い「野蛮国」の話を、伝聞だけで書いた文章である。そんな文献だけをいくらこねくりまわしても、なんら価値のある発見は出てこない。
日高見国という教授の壮大な学説には、「総合力を欠いた研究方法」しか持ち合わせていない日本の学界では、見て見ぬふりをするのが精一杯だろう。象牙の塔ならぬ、「象牙のタコツボ」に閉じこもった学者には、それが一番安全だからだ。
田中教授が長年、欧米で学んだ「総合力をもった研究方法」では、もう一つ優れた側面がある。学者、特に功成り名遂げた学界を代表するような人物が、一般読者向けに総合的な啓蒙書を書くという伝統である。人文・社会科学系の学者は象牙の塔に閉じ籠もるべきでなく、一般国民の教養に資するべきだという考えからである。
幸い、田中教授もその伝統に従って、専門論文集の外に一般読者向けの啓蒙書を出されている。我々もこれらを読み、自分なりに考え、議論に参加していくべきだ。我が日本という国家の始まりを問う、国民全体にとって重要な問題なのであるから。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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