日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。
(各国首脳の神宮「参拝」)
平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。
ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。
内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:
「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)
「平和と静謐(せいひつ)、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)
「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)
(人間は自然の主人か、同胞か?)
これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。
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日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、社会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。
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その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)
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山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。
神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。
それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。
深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。
地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。
(全体主義か、自由民主主義か)
自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。
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神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、「平等」の存在になります。
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共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。
万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。
これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。
しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。
これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。
最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。
(統制経済か、自由市場経済か)
生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。
川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。
このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。
生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。
---owari---
コメントを頂いたのですが、私にはよく分かりません。あしからず。