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大打撃の「明暦の大火」、奇跡の復興が江戸の都市化に貢献!

2018年11月22日 | 歴史

1657年(明暦311819日の2日間、江戸始まって以来の大火災が起きている。

主だった町や武家屋敷のほとんどが焼け、江戸の町の60パーセントが焼失した。火は江戸城にまで及び、本丸、二の丸、三の丸、天守閣が焼け落ちた。天守閣は以来再建されないまま今日に至っている。

 

この火事での死者は十万八千人、焼け跡や川筋に数限りない死体の山が築かれ、手の付けられない状態がしばらく続いたという。まさに壊滅的な惨状であった。これが世にいう「明暦の大火(めいれきのたいか)」だ。

 

出火原因とその場所は当時から諸説があり、由井正雪の残党の放火説や幕府の放火説まで様々な説が語り継がれている。そのなかで、最も有名なのは、振袖に由来する説だ。明暦の大火は別名「振袖火事」とも言われる。

 

振袖火事のいわれは、商家の娘のおきくが紫縮緬(むらさきちりめん)を着た美しい寺小姓に一目惚れし、恋の病で寝込んでしまうことに始まる。そこで親が紫縮緬の振袖を作って見舞うが、甲斐なく死んでしまう。その紫縮緬は古着屋に出されることになり、今度も商家の娘のお花がそれを気に入り買ってもらう。

 

だが、お花もすぐに病死する。そして紫縮緬は質屋に入り、質屋の娘のおたつがそれを自分のものにする。ところが、おたつも突然の病に倒れ死んでしまう。

 

こうして数々の不幸を招いたために、紫縮緬の振袖は、供養されることになった。本妙寺で経をあげ火に入れたところ、強風に舞い上がり、本堂に燃え移るとたちまちその火が江戸市中に広がっていったという。江戸最大の大火だけに、まつわる話も微に入り凝ったものになっている。

 

さてこの明暦の大火は、確かに江戸の町を壊滅させ打撃も大きかった。だがその復興に際し、江戸の都市化に大きく貢献していることも見逃せない。

 

江戸の復興過程では、防災の観点から市街の整備が進められている。区画整理と広小路の設置は火除けの役割を果たし、所々に火除け地として空き地も設けられた。

 

大名、旗本の屋敷替えや寺社の市街周辺への移転も行われた。また、日本橋人形町にあった吉原が現在の場所に移されたのもこのときである。江戸の復興と整備は急ピッチで進められた。

 

江戸中期以降に江戸の人口が急増するのは、こうした都市化によるところが大きかった。同時に、商業、文化の発展が急速に進んだのも、この都市整備が重要な役割を果たしたのである。壊滅からの奇跡の復興が江戸を蘇らせたと言えるだろう。

 

まさに雨降って地固まる。いや、明暦の大火の場合は、火事起きて町起こる、といったところではないだろうか。

 

---owari---

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