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東北地方への積極的な上方文化の導入を行った政宗

2022年10月24日 | 歴史
今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。
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「東北地方への積極的な上方文化の導入」
である。その手始めとして、
「伊達軍団の軍装を華麗にしよう」
と企てた。一人ひとりの兵士に、
「自分で工夫をして、軍装をきらびやかにしろ」
と命じた。こんなことを言う大将は当時ひとりもいない。兵士たちは思い思いに自分の軍装を華やかなものにした。集まるとかなりサイケな組織になった。

多くの人が
「伊達軍団は実に伊達者だね」
とささやき合った。当時、華麗な服装をするお酒落な人間を、
「伊達だね」
という言葉で評価したからである。この言葉は流行し、日本各地においても、
「伊達だね」
というのは、酒落者をさしている。

おもしろいことがある。それは英語でもお酒落な人間を、
「*ダンディー」
という。伊達に通ずるところがある。

伊達政宗が自己軍団を華麗な服装にしたのは、彼自身、
「風流心(文化精神)」
を強く持っていたことを物語る。土地を奪う合戦つづきのころには、そんな風流心は役に立たない。逆に邪魔になる。

しかし、
「そうはいうものの、合戦のときにも風流心を失わない武将がいる」
ということを切実に感じたのは、やはり小田原の陣中に豊臣秀吉をたずねたときのことである。本来なら、秀吉にそむいたのだから腹を切らされるところを、秀吉は救ってくれた。

それは秀吉も、伊達政宗の胸の底にある、
「風流心」
を認めたからである。あのとき、秀吉は自分から先に立って山の上から麓の小田原城を囲んだ豊臣軍を示した。豊臣軍は、小大名の混成軍だったが、その軍装は思い思いのものであり、実に華やかだった。政宗は圧倒された。そしてはじめて、
「天下人秀吉の力」
を認識したのである。

政宗も、若いときから苦労している。また、将としてもすぐれた力を持っていた。戦国時代を生き抜くためには、
「先見力・情報力・判断力・決断力・実行力・体力」
の条件が必要だ。政宗は政宗なりに、
「おれにはそのすべてがある」
とうぬぼれていた。

ところが豊臣秀吉に会った途端、そんなものは全部ふっとんだ。残されたのは、
「おれは、しょせん東北という小さな井戸の中の一匹のカエルにすぎなかった」
ということだった。たしかに東北地方では、〝独眼竜政宗″として名を高めた。が、現在でいえばそれは、
「地方自治における有能者ぶり」
を示しただけであって、日本国全体に力があったわけではない。

天下人豊臣秀吉は、
「日本国全体をひとつの地域として考える」
という壮大な発想によって、政治力を示した。伊達政宗の力は東北地方においてはすぐれたものがあったが、日本国全体にそれをおよぼすとなると、やほり別な政治力・行政能力が必要になる。それを政宗は欠いていた。しみじみそのことを悟った。だからこそ東北に戻ったときに、
「外国と積極的に交流しょう」
と考えたのである。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

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「*ダンディー」・・・「Dandy」という語の起源はよくわかっていない。
1836年にトーマス・カーライル(イギリスの歴史家)は次のように書いている。
「ダンディは伊達男であり、ダンディの生業、はたらき、在りようは服を着ることのうちにある」。

「ダンディ」という言葉は18世紀後半(1700年代後半)に欧州で、はじめて現れている。
伊達政宗が慶長遣欧使節として、今から約400年前、時のスペイン国王およびローマ教皇のもとに使節を派遣したことにより、「伊達男」=「ダンディ」が広まっていった可能性はあると思っています。

---owari---
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