⑧今回は「作家・童門冬二さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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信長による桶狭間の奇襲などは、敵の意表に出て、その弱点に味方の兵力を敢然集中する戦法だ。
秀吉は信長に学ぶところが大きい。が、このところの中国の諸城、三木城の干殺し(ほしごろし)、鳥取城の飢え殺し、高松城の水攻めで見せた大規模な土木工事的攻城戦は、かつて日本の将のだれもが考え出せなかった独創の片鱗をあらわにした。
そして山崎の合戦に至る中国地方からの大転戦は、一気に多くの諸将の意識を一変させてしまった。
合戦の勝敗を決する最も重大な要素は、ほかでもない、
「時間である」
ということを、光秀との戦いで秀吉は万人の胸に鮮やかに印象づけて見せたのだ。
それまで、だれ一人として時間の常識にしばられ、二時間は二時間、一日は一日、五日は五日というように、一様に同じ思考の上に立って物事を考えてきた。
秀吉が高松城から兵を返すには、どう急いでも十日はかかる。いや、毛利方に対する処置を考えれば半月以上はくぎづけになるはずである。だれもがそう思う。そして、すべての考えがそれを前提として構築されていく。
明智光秀にしても、柴田勝家にしても、そして蒲生父子も、
「時間の常識を打ち破る」
ということの、いかに勝敗を決する重要事項であるか、ということに気づいてはいなかった。
ところが秀吉という男ただ一人が、一刻一秒の時の流れと競い、これを追い越すかのように、時間の常識にしばられている人々の頭をかすめとんで、本来、絶対にその地には存在し得ない時間に、忽然と全軍兵を集結させてしまっていたのである。
いや、秀吉はこの一事に自分の考えられるだけのすべてを掛け、他を犠牲にして顧みなかったのだ。これは、蒲生氏郷(がもううじさと)に、いまでも繰り返し身体中を震撼(しんかん)させるだけの衛撃を与えた。そして、同時に、その一事のお除で、自分はまだこの世にいる、という思いを痛切に味わせられた。
あの時、柴田勝家は、この一事を頭の片隅にすら、想い浮かべなかっただろう。だからゆっくりと進軍した。そして「時間」を失った。勝家はいってみれば秀吉に負けたのではなく、時間に敗れたのだ。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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