⑦今回は「作家・童門冬二さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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このころの秀吉は、竹中半兵衛を軍師にしていたが、半兵衛は、
「合戦でいたずらに人の生命を奪うのはよくありません。それよりも兵糧攻めや水攻めにして、敵のカが弱まるのを待ち、大将ひとりに切腹させて他の部下は全部助けるべきです」
といった。
秀吉は賛成した。したがってその後、秀吉の城を攻める方法はすべて櫓(やぐら)をつくったり、あるいは堤(つつみ)をつくったりして、城に食糧が入らないようにする兵糧攻めや水攻めに変わった。このために大土木建設工事がおこなわれた。
これに従事する労務者に対して秀吉は全部賃金を払った。これが秀吉の名をさらに高めた。これもまた秀吉の巧妙な宣伝術である。つまり、
「秀吉様は絶対に刀や槍を使わない。兵糧攻めや水攻めで敵の城を落とす。そして大将がひとり切腹すれば、他の部下は全部生命を助けてくれる」
という評判を立てた。
これはひとつの「世論」を生んだということになる。むかしの「信長様への忠誠心」あるいは「これだけは絶対に譲れない」という段階からさらに大きな理念(宣伝術)に発展していったのである。いきおい理念が大きくなればなるほど、宣伝方法も大掛かりになった。
このころ秀吉が使った宣伝術の中に「やさしさと思いやり」がある。これは主人の信長がどちらかといえば「部下に恐怖心を与えて統御する」という管理術を駆使していたので、秀吉はひそかに(これでは長続きしない。いつか反乱者が出る)とみていた。
そこで秀吉は少しずつ自分のやさしさや思いやりを部下に示すことによって、信長とは「一味違ったリーダーシップ」を発揮しはじめた。これが人気を博した。信長の一挙手一投足にピリピリしていた織田家の連中は、秀吉のこういうやり方に心服した。
「サルはなかなかやるぞ」と評判になった。この人間的な魅力も秀吉の理念(宣伝術)にまた深みを加えた。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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