このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

稲むらの火

2021年09月20日 | 日本
(稲むらの火)
「これはただ事でない」

海辺の高台に住む庄屋の五兵衛は、今の地震の長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りでそう思った。海を見ると波が沖ヘ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。

「大変だ。津波がやって来るに違いない」と、五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまう。家にかけ込んだ五兵衛は大きな松明を持って飛び出して来た。

「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は自分の田のすべての稲むらに火をつけた。

「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の者は、急いで山手ヘかけ出した。高台から見下している五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。村中の人は、追々集まってきた。五兵衛は、後から後から上がって来る老幼男女を一人々々数えた。

やがて津波が村を襲った。一同は、波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下していた。

稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。始めて我にかえった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。

(青年教師の熱情)
これは昭和初期の国定国語教科書に取り上げられている逸話である。平川祐弘・東大名誉教授の「小泉八雲西洋脱出の夢」ではその経緯を次のように紹介している。

『稲むらの火』が昭和十二年から国語教科書に載ったことについては、次のような経緯があった。昭和九年、文部省は新しい国語と修身の教材を公募した。それに応募して選に入った人が、和歌山県湯浅町の一小学校教員であった。当時の教え子・花光茂樹はその感激を『ぼくらの先生』という綴り方に次のように書いている。

「中井常蔵先生は、ぼくらの學校の先生である。その先生のお作りになった文章が、ぼくらの讀本に出る。やがて、ぼくらはそれを習へるとは何と言つても嬉しい」

そして中井氏自身、晩年に当時の事情を次のように回想した。
「文部省が民間から国定教材を採入れるというようなことは洵(まこと)に未曾有の英断であり、官選の教材から民選の教材に、というこの画期的試みは、教育に熱情を傾けつくせる年代であった私の心を強くゆすぶるものがあり、かねてから子供に愛される教科書、子供に親しまれる教材ということを念願していた私は、その渇望の一つを自分の手でと考えて応募したのがこの一篇でありました」

中井青年が『稲むらの火』を書いたについては訳があった。彼が住んでいた和歌山県湯浅(正確にはその隣村広村)こそ安政元年十一月五日、津波に襲われたその土地であったからである。中井は自分が応募した文章が、一字一句の修正もなく、文部省によってそのまま採用されたことに感動した。

[濱口儀兵衛の義挙(ぎきょ:義のためにする行為 )]
平川教授の分析では、中井青年はこの八十年前の郷土の先覚の事績をラフカディオ・ハーンの書いた文章を通して知ったという。それは主人公の名前が史実では濱口儀兵衛なのだが、ハーンの書いた通り五兵衛としていることからも明らかである。

ハーンは明治二十九年六月の宮城、岩手、青森三県を襲った、死者二万人にもおよぶ「三陸大津波」の際に、広村の濱口儀兵衛についての記事を新聞などで読み、この故事を深く印象に留めた。そしてこの素材をもとに芸術家としての自由な空想を働かせて『生神様』を米国の『大西洋評論』誌の同年十二月号に発表し、さらに来日後第四の著作集『仏の畑の落穂』の巻頭に掲載したのである。

しかし濱口儀兵衛の事績は実はこれだけに留まらない。儀兵衛はこの天災の後、村人を動かして津波除けの一大堤防を築いたのである。

その目的の第一は天災から未来永劫、広村を守るためであり、第二は津波に襲われて虚脱状態におちいった村民に独立自助の精神と勤勉努力の習慣を身につけさせるためであり、そのために儀兵衛は広村のために特に年貢の免除を藩に願い出、堤防建設の工費は自分で負担する旨申し出たのであった。(中略)

そして四年近い歳月を費やして長さ六百五十二メートル、高さ三メートル、(平均海水面上約四・五メートル)、幅、底面十七メートル、上面二・五メートル乃至三メートルの堤を完成したのであった。それは村の窮民への授職の意味での建設事業でもあったが、延人員五万六千七百三十六人に及ぶ労働奉仕でもあった。

現地では、今もこの堤防が残っており、毎年11月には津波祭を行い、土を土手へ運んで、感恩碑の前で儀礼を行うという。それだから土地の子供たちは地震や津波の時は皆どこへ逃げればよいか知っている由である。また浜口儀兵衛が幕末期に開いた耐久塾の名を受け継いで、耐久中学校、耐久高校があるという。

(ロンドンでの激越なる感動)
平川教授の文章は次のような感銘深いエピソードで結ばれている。 
濱口儀兵衛の末子・濱口担(になう)は、明治5年に生まれ、慶応義塾普通部を経て、東京専門学校(早稲田大学の前身)を卒業し、明治29年に渡英して、ケンブリッジ大学に学んだ。その担が明治36年5月13日、ロンドンの The Japan Society に招かれて「日本歴史上の顕著なる婦人」と題して英語講演を行った。

講演が喝采裡に終り、質疑応答も一巡して、座長アーサー・デイオシー(Arther Diosy)氏がまさに閉会を宣しようとした時、後列の一婦人が立上って遠慮深げに講演者に向い、こうたずねた。

「私は今夜の御講演の主題につきましては何等質問討議すべき能力をもたないものでございます。それでほかの皆様が私どもには耳新しい日本の女性の上についていろいろ想いを馳せておいでになる間、私は自分ひとりで胸の中である問題をずっと考えておりました。しかしそれは日本の女性と直接関係がないために、皆様の質疑が終るのをお待ちしていたのでございます」

ステラ・ド・ロレーズ(de Lorez)嬢はそう断ってから聴衆一同へ向き直り、「ここにおいでの皆様はハーン氏が『仏の畑の落穂』の冒頭に掲げた「生神様」の美談のことを御記憶でございましょう。それはいまから百年ほど前に、紀州沿岸に大津波が襲来した時、身を以て村民を救った濱口五兵衛の物語でございました」

と一篇の梗概(こうがい:あらすじ)を手短にかいつまんで話し、彼女が深く濱口五兵衛に傾倒しているむねを述べ、ふたたび壇上の濱口担に向って、「かねがねこのように深く濱口を慕い、濱口の名に憧れております私でございます。お教えくださいませ、今夜の講演者の濱口様は私の崇拝してやまぬ濱口五兵衛となにか御親戚でいらっしゃいますか」

衆目は期せずして壇上の講演者に集まった。濱口担は思いもかけず、こうした外国の公の場所で自分の父親の事跡を語られ、かつ突然な質問を真正面から受けて、激越な感動にとらわれ、一言も発することができなかった。司会者デイオシー氏が訝(いぶか)しんで近づき、講演者になにか小声で問い質した。そしてうなずくとデイオシー氏が、濱口に代って、「今夜の講師濱口担氏こそ正しくハーンの物語の主人公、濱口五兵衛の御子息なのであります。お二人は父子であられるのであります」

と告げた。会衆一同は、なにゆえ青年講師が紅潮して、声を発するを得なかったか、その心事を察して感動を禁じ得ず、満堂(満場)はたちまち拍手と歓呼にどよめいたのであった。(中略)

(「美なる側面」に感ずる心)
あれから七十余年が過ぎた。しかしいまもなお、私たち自身も講壇に立って、感動に声をつまらせた濱口担の胸中を思いやることができる。私たち自身が外国人が外国の言葉で私たちの祖先の美談を語るのを聞く時に覚える感動--ハーンが温い同情を以て過去の健気な日本人を語るのを聞く時に覚える感動は、程度の差こそあれ、濱口担が英京ロンドンで覚えた感動に似ているからである。

坪内逍遥が「故小泉八雲氏の著作につきて」述べたように、ハーンはたしかに「余りに温い同情を以てひたすら我が風俗人情の美なる側面のみを拾ってくれた人であるかもしれない」しかしその「美なる側面」に感ずる心こそ、その祖先の人の恩に感ずる心こそ、これからもまた新たに「美なる側面」を創り出してゆく美しい日本の心、世界に通ずる日本の心なのではあるまいか。

ハーンの作品、および、平川教授の著作については、今後もおいおい紹介していく予定である。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

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*1:濱口担さんは後に、大学教授になられています。
*2:濱口儀兵衛さんは、幕末・明治初期のヤマサ醤油の七代目当主です。

---owari---
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