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勝海舟の人生訓(前編)

2020年08月18日 | 歴史
「おこないはおれのもの、批判は他人のもの、おれの知ったことじやねえ」(勝海舟・意訳)
(行ないは自分が、批評は他人がする)

この言葉は、勝海舟の全思想を表わしている。
彼はこういう態度で自分の生涯を生き抜いた。この言葉を口にしたのは、具体的にはつぎのような事件があったからだ。

彼は徳川幕府の終戦最高責任者でありながら、その後、明治新政府に参加した。しかも、それも平職員としてではなく、海軍大臣や枢密顧問官にもなった。こういう勝の生き方を見ていて、学問一途に走った福沢諭吉は、『やせ我慢の説』という本を書いた。

その本で、
「二君に仕えた幕臣」
の典型として、勝海舟と榎本武揚とをとりあげた。そして、この『やせ我慢の説』を二人に贈った。贈っただけでなく、
「ご感想をおもらしいただきたい」
と添え書した。榎本は、福沢のこの申し出に実に懇切丁寧な答え方をした。
しかし、こういう答えは長ければ長いほどどこか言いわけじみてくる。榎本の回答も言いわけじみていた。

勝は何も言わなかった。黙殺した。そして、一人で、この「*1行蔵は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」という言葉を呟いた。
(訳:自分の出処進退をどうするかは自分が決める。その結果について人は批評したりするだろうが、それは他人がやること。私のあずかり知るところではない)

[*1行蔵(こうぞう):世に出て道を行うことと世をのがれて才能を表に出さないでいること。一般に、出処進退]

(渡米で学んだこと)
「天皇政府か徳川幕府か」
を選ぶという意味だ。それは勝にはできなかった。何故なら、勝は、天皇政府か徳川幕府かという次元で政治を考えでいなかった。日本の政治と、日本の国家という次元ですべてを考えていた。彼にとって必要だったのは、外国と堂々と渡り合える強い日本国家を創り出すことであった。

その能力が徳川幕府にないと見たから、
「日本における共和政府の樹立」
という構想をもった。したがって、彼は徳川家の家来でありながら、既にそういう家来意識を捨てていた。むしろ、日本国家の一員であり、日本国民だという意識の方が強かったのである。この発想は、彼が咸臨丸(かんりんまる)でアメリカに行った時に、アメリカで学んだものであった。

アメリカで彼が見たものは、四年毎に選出される国家元首の姿であった。大統領選挙である。しかも、国民によって選ばれたこの大統領の子孫が、今どういう暮らしをしているのか、国民は関心をもたなかった。アメリカに行った時、勝は福沢諭吉といっしょにアメリカ市民にきいた。

「ワシントン大統領の御子孫は、今どうしておられますか?」
しかし市民達は、
「そんなことは知らない、関心もない」
と答えた。

これには、勝は一驚した。大統領といえば、日本では徳川将軍に相当する。将軍様の子孫が、今どうしているかは、普通の人間であれば誰でも知っていた。それを、アメリカの市民は、知りもしないし、また関心もないという。

勝が、さらに驚いたのは、議会であった。議場の、
「日本の魚市場のような」
論争のやかましさは、江戸城の奥で老中達がひそひそと声をひそめて話し合う光景とは、まったく違った。しかも、その議場で論争した論敵同士が、いったん議場を出ると、今度は、実ににこやかに、肩を叩きあって談笑するのだ。

(世論の潮にのって飛躍)
幕府は、まだまだそこまで心が広くなかったから、彼の直接の上司は、口に出して、海舟のオランダ学修学をとめた。が、海舟は諦めなかった。オランダ学の先生の所に、夜中に潜行しては、学業を続けた。これは、彼が自分のやっていることに自信をもっていたこともあるが、それだけではない。彼は、
「おれの背後には、たくさんの日本人がいる。その人達が、おれのオランダ学修業を支持している」と思っていたからである。

つまり自分のためにオランダ学を学ぶのではない、単なる出世の手段にするためではない、日本の国のためにおれがオランダ学を学ぶのだ、という自負をもっていた。そして、それは正しかった。やはり目に見えない人心(世論・人々の期待)は、たしかに勝を支持していた。だからこそ、そういう世論の潮にのって勝は、大きく飛躍できたのである。

このことは、今の社会でも同じだろう。会社の中で、ひとりだけ新奇なことをやり、しかも人間関係が下手なら周囲の目は冷たくなる。そういう時に、普通の人ならすぐ自信をなくしてしまう。しかし、勝のような考え方をしていれば、自分の考えたことや売る品物が、客の間で評判がよければ、
「社内でどんなに人間関係がまずくても、おれにはお客さんがいる」という自信がもてるだろう。

大切なのは、社内の気受けをよくすることではない。客の気受けをよくすることだ。それが、会社が作るもの、あるいは提供するサービスの質によって、客とつよい信頼関係をもつということである。勝のやったことは、このこととまったく同じであった。

(他人の忠告や助言は選んで聞け)
この世の中で、人間が生きて行くということは、
「人との出会いの連続」
であると言っていい。だから、人は、人に影響されて生きて行く。影響を与える人にも、いろいろな人間がいて、参考になる場合も、ならない場合もある。悪影響を受けてしまう場合もある。その悪影響を受けないためには、よほど自分がしっかりしていなければならない。

勝は、立場上、人なみ以上に多くの人と会った。しかし、彼の人を見る目は厳しかった。鋭かった。したがって彼は、いろいろな忠告や助言をもらったが、その全部を聞くということをしなかった。つまり人の言いなりにはならなかったのである。
「聞くべき意見」と、
「聞かない意見」とを分けた。

分ける基準は、
「その人物が一流であるか、二流であるか、あるいは三流五流であるか」
である。一流の人物の意見は、無条件で聞いても、二流三流の人物の意見は、黙殺した。無視した。それが、彼を鍛えた。

つまり、美術品を鑑賞する場合にも、がらくたばかり観ていたのでは目が肥えない。目を養うたぬには、一級品ばかり観なければならない、というのと同じである。
人間にも、一級品もあればがらくたもある。がらくたの言うことを、いちいち真に受けていたのではきりがない、というのが、勝の人生態度であった。

それは、彼が人を見る上にも表われている。はじめは人のあまり評価しなかった西郷隆盛や横井小楠を、かなり若い時分から高く評価していた等は、その例である。だから、自分が一級品とレッテルを貼った人間達の意見は、素直に聞いた。しかし三流五流の人間の意見は、全部右の耳から左の耳へつきぬけさせてしまったのである。

*(作家・童門冬二『歴史小説より』より抜粋)

---owari---
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