神話時代から続く「天皇」をいただく「日本」。この基本構造を確立したのが、天智・天武・持統天皇三代の大化の改新だった。
(蘇我氏が皇位を簒奪(さんだつ)していたら)
「日本」という国家は、「天皇」を国家および国民統合の象徴としていただき、その天皇が民の安寧(あんねい)を神に祈り、天皇の御代を表す元号を世界で唯一保持しています。わが国の基本構造を一文で表せば、こう表現できましょう。そして、これらの国柄を確立したのが、天智・天武・持統三代にわたる公民国家確立の苦闘だったのです。
この苦闘の発端が、乙巳(いっし)の変による蘇我氏の打倒でした。蘇我氏は自分たちの祖先の祭壇を作って「廟(びょう)」と呼び、墓を築いて「陵(りょう)」と唱えました。
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廟も陵も、ともに漢人社会では帝王家の施設にしか用いることの許されていない用語である。彼らはこうした事実をつみ重ねながら、漢風に、王朝が新実力者に帝位を授与する形式のいわゆる禅譲(ぜんじょう)というやりかたで、皇室から君主権を奪いとろうとしたもののようである。この一族がいかにシナかぶれしていたかがわかるだろうと思う。
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蘇我氏の野望が実現していたら、今の日本はどうなっていたでしょう。蘇我「王朝」は、崇峻天皇を暗殺し、聖徳太子の皇子・山背大兄王の一族を滅ぼしています。そんな悪逆の歴史を持つ「王家」が、日本国の象徴であったら、日本国民は敬愛の心など持ち得ないでしょう。君主制を敵視する左翼の格好の攻撃材料になったはずです。
いやそもそも、ひとたび蘇我「王朝」が皇位を簒奪したならば、道鏡などのようにその後も皇位を狙う野心家たちが後を絶たず、中国のように王朝が興っては滅びの戦乱の歴史が繰り返されたでしょう。日本国民が経済的にも文化的にも発展したのは、平安時代や江戸時代など、長い平和の時代があったからです。
また、江戸幕府から明治政府への政権交代がスムーズに行われ、その後、国民が一丸となっての近代化が一気に進み、70年足らずで世界の指導的大国になりえたのも、国家・国民統合の中軸たる皇室があったからです。それが中国のように、政権争奪の内戦続きでは、近代化など望むべくもありません。
乙巳(いっし)の変を権力争いの次元だけで見て「クーデター」などと呼ぶのは、こうした日本の歴史の本質を捉えていません。国家の基軸たる皇室を護持して逆賊を退治し、その後の安定的な発展の基盤をもたらした偉業だったのです。
(「国民生活への思いやりが深い」制度)
中大兄皇子と中臣鎌足が追求した理想は、その後の大化の改新で順次具現化された「公地公民の原則」に現れています。「公民」とは、豪族が支配する「私領民」を、天皇が統治する「公民」とすることですが、単に支配者が変わるということではなく、「大御宝」として、その安寧を図るということでした。
天武天皇の命によって編纂が開始されたとされる『日本書紀』の原文では、初代・神武天皇が皇位に就かれる際に「元元(おおみたから)を鎮(しず)むべし」との詔を発せられたのを初めとして、「人民」「衆庶」「百姓」「民萌(みんぼう)」「民」などの別々の字を用いられてはいますが、みな「おおみたから」と訓じられています。
「大御宝」を護るためにどのような政策がとられたのでしょうか? まず口分田は6歳以上の男子に2段、女子にその3分の2、家人・奴(やっこ)にはそれぞれ良人男女の3分の2が与えられました。唐では成人男子のみに支給された事に比べれば、子供、女性、家人・奴にまで支給する、という点で、今日の言葉で言えば、基本的人権が考慮されています。
ちなみに奴婢(ぬひ)は、それまでの卑民制度を唐にならって残したものですが、最盛期でも人口は全体の1割よりははるかに少なく、さらに次第に減少して、延喜年間(901-903)には法的に廃止が宣言されました。
また、税として収めるのは、だいたい収穫の3%程度でした。それ以外に年に10日間の労役がありました。これは唐の半分の日数です。労役に出ない場合は、1日分の代償として麻布2尺6寸を収めなければなりませんでしたが、唐はその1.44倍の3尺7寸5分を収める必要がありました。
こうしたデータをもとに、村尾次郎・文部省主任教科書調査官は、次のように結論されています。
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日本の律令制度は、日本人の比較的おだやかな性質と、儒教の徳治の精神とを基礎にして、この制度の母国である隋唐のやりかたよりもはるかに国民生活への思いやりが深いものとなった。
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(公正な行政を目指した熱意)
また「大御宝」が安心して暮らせるようにするためには、役人たちが厳正な行政を行わなければなりません。大化元年8月5日、東国の国司8人を選んで派遣する際にも、その心得を厳しく諭しました。曰く「任地に行って戸籍を作り、田畑を調べよ。わいろを採って、人民を苦しめてはならない。京に上るときに、大ぜいの百姓を共につれてはいけない」等々。
国司たちは、明くる年の3月には帰京して、仕事ぶりを厳密に調べられています。
同じ8月5日、朝廷では、人民の声を直接政治に取り入れようという意図から 鐘と櫃(ひつ、箱)の制度を設けました。人民は、もしなにか困ることがあって訴えたいと思う場合は、まずは仲間の長たる人に申し出て、その人から朝廷に訴えます。
もし、その長たる人が訴えてくれないときは、そのことを申し文に書いて櫃に入れる。係りの役人は、毎朝早く箱を開いて申し文を取って天皇に申しあげる、天皇はそれに年月を書きくわえて、役人たちに示す。それでも役人たちがなまけて処理をせず、また一方にえこひいきして正しい判決をしないときは、鐘をついてそのことを訴えよという三段がまえです。
実際に、期限以上に朝廷の雑役に使われていた地方民がこの方法を利用して、役人の勝手なやり方を改めさせた例もありました。
また大化2年3月22日には薄葬令(はくそうれい:身分に応じて墳墓の規模などを制限した勅令)が出されました。それまでは古墳を築いて手厚い葬儀を行っていましたが、それが一般農民を疲弊させていることから、身分によって墓の大きさ、使う人夫の基準を設けました。これによって、以後、豪壮な古墳が姿を消します。
さらに旧俗廃止の詔も出されました。殉死(じゅんし:主君、主人の死後、臣下があとを追って自殺すること)の風習を止めさせ、民間における有力者の無力者への不法行為、男女の間における男子の女子に対する暴虐などを禁止しました。
「大御宝を鎮(しず)むべし」に、朝廷がいかに熱心に取り組んだかが、察せられます。
---owari---
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