今回のシリーズは、武田信玄(第2弾)です。
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●別軍がキツツキのように妻女山(さいじょさん)の上杉軍を攻撃する
●驚いた上杉軍はそのまま山を下って渡河し、川中島に退く
●それを待ち受けていた武田本軍がこれを殲滅(せんめつ)する
という戦法であった。
この合戦におけるキツツキ戦法は、
「山本勘助が立案したものだ」
といわれるが、筆者はすこし首を傾げている。というのは武田信玄が山本勘助をいわゆる″軍師″として合戦で活用した実績があまり発見できないからだ。それにこの本でしばしば書いてきたように、信玄そのものはあまり軍師の存在を重要視しない。自分に軍師的才質があると思っているから、このときもおそらく信玄自身が立てた作戦ではなかったろうか。
しかしこの作戦は失敗する。それは上杉謙信のほうが一枚上手だったからである。謙信は妻女山からじつと海津城の動きを見ていた。突然海津城から煙の柱が何本も立ち上った。謙信は脇の者に言った。
「武田軍が動くぞ」
「なぜですか」
「煙がいっせいに上った。あれは飯を炊いている煙だ。やつらは飯を食った後、必ず動く。場合によってはここへ来るかもしれない」
「ここへ?」
部下はびっくりした。謙信は領いた。
「キツツキ戦法だ」
そう告げて謙信は、にやりと笑った。そして、
「その手は食わぬ」
そう言うと、ただちに全軍に命じた。
「川を渡って川中島に出る」
この後の上杉軍の行動が、のちに頼山陽の有名な詩に歌われる“夜河を渡る″ということになる。しかし、翌九月十日は、未明から川中島一帯に深い霧が立ち込めはじめた。武田軍は信玄が命じたとおり、二軍に分かれ行動を起こした。別軍の大将は高坂昌信がつとめた。昌信は張り切っていた。山本勘助は信玄の供をして本軍に加わった。
高坂は勘助に言った。
「山本殿、場合によってはこれが今生のお別れになるかもしれません」
「うむ、おぬしの活躍を祈る」
「山本殿もどうか武運のお強きを」
「おぬしもな」
二人はそう言って別れた。
(『戦国一の孤独な男-山本勘助』作家・童門冬二より抜粋)
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*高坂昌信は『甲陽軍鑑』によれば妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。
『軍鑑』に拠れば、その後も元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦したという。
---owari---
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