1911年7月1日、ドイツは帝国の権益を守るためとして、砲艦パンター号をフランス領モロッコのアガディールに派遣した。ヨーロッパ諸国に緊張が走り、チャーチルは、イギリスは万が一に臨む覚悟と準備が必要だと感じた。
彼は海軍大臣に就くと、ただちに行動した。実地に知識を得るために海軍省のヨットに乗り込んで約8ヶ月にわたって海上で過ごし、海軍の施設や造船所を視察して、重要な軍艦には全部乗り込んでみた。
そして1912年から14年にかけて、チャーチルは英海軍の大建艦計画を立てる。彼は艦隊の燃料を従来の石炭から石油に換え、艦隊の行動力と速力を高めた。ドイツの建艦計画に対抗し、同時にこれは、ドイツのウィルヘルム二世への挑発ともなった。
チャーチルは「イギリス海軍は、われわれにとって必要なものであるが、ドイツの海軍は一個のぜいたく物である。わが海軍はイギリスの存亡にかかわるものだが、ドイツ海軍はたかがドイツの膨張を意味するにすぎない」と熱弁をふるい、建艦競争における当否の議論を主導した。
チャーチルはドイツの将来の動きを予測し、それにイギリスがどう対抗すべきかを説いて戦争の機運を高めた。ウィルヘルム二世と会うことを勧められてもチャーチルは応じず、戦争を待ち望む者であるかのごとく常に宥和(ゆうわ)主義に反対し、ドイツに対抗した。
1912年、英仏海軍協定が結ばれ、フランス艦隊は地中海に、イギリス艦隊は北海に集中された。1914年6月、第一次世界大戦の導火線となったサラエボ事件が起きる。同年7月、緊張状態のなかでイギリス艦隊は演習を行い、チャーチルは演習後も全艦隊を集結させたままにした。
彼の指揮下、イギリス海軍はすでに準備を整えていた。開戦当初からイギリスは制海権を握った。ウィルヘルム二世よりもチャーチルのほうが常に一歩先を行なったのである。
第一次世界大戦で日本が連合国側としてドイツ・オーストリアに宣戦布告して参戦したのは、1914年8月25日だった。日本軍はすぐさま中国山東省に上陸し、ドイツ軍が占拠していた膠州湾(こうしゅうわん)を占領、また10月には南洋諸島を占領し、11月7日、青島(チンタオ)を占領した。
陸戦では1916年2月、有名なヴェルダン要塞の攻防戦が展開された。独仏双方で70万の死傷者を出す激戦となったが、フランスの軍司令官ペタンは何とかドイツの攻撃を持ちこたえ、以後、ドイツは、より過酷な消耗戦を強いられる結果となった。
海戦でも1916年5月末のユトランド沖での英独両海軍の戦いでドイツの劣勢は動かし難いものになり、ドイツの外洋艦隊は日本艦隊に追撃され、南米のアルゼンチン沖でイギリス艦隊に撃滅された。
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