第一次世界大戦後も第二次世界大戦後も、ドイツ皇帝はドイツをヨーロッパ第一の強大国に、しかも海軍大国にする夢を捨てなかった。
イギリスはそれに対抗するか、あるいは当分は相互抑制でゆくか(ネイビーホリデーの提案)と国論が分かれたが、チャーチルはあくまでも早期直接対決が有利と主張した。
その方法は遠隔封鎖で、①英国の地中海艦隊は廃止した、②戦艦も長距離封鎖に向いている巡洋戦艦に順次切り換えた、③燃料を石炭から石油に換えた、④海外に散在する基地を強化して太平洋で迎撃することにした、⑤アラブの油田確保のために石油会社を設立した、⑥航空部隊を併設して、自分もパイロットの試験を受けた(新婚の夫人から離婚されかけたので、やめた)など。
30歳代半ばの海軍大臣だったチャーチルは「ドイツが外洋に出てくればイギリス海軍は大歓迎だ」とスピーチし、「海外植民地が少ないドイツにとって海軍は赤字だ」と言った。恐るべき先見の明だったが、それでも1940年代の日本海軍航空隊に惨敗した。
日本はそれを東宝が『ハワイ・マレー沖海戦』という映画にしてアジア各地に配給した。南下する海軍航空部隊83機の映画を台湾の人と観たことがあった。プリンス・オブ・ウェールズとレパレスのイギリス戦艦2隻を雲の下に探して“まだか、まだか”と日本海軍機は南へ飛ぶ。「もう引き返さないと、帰りのガソリンがありません」とパイロットが何回も言ったとき、指揮官は「帰ろうと思うな」と答える。
映画館いっぱいの台湾人がどよめくのを聞いて、私は「これがアジアの人に与えた日本人の決死の覚悟だったのだな」と思った。
このときから日本人はアジアの人たちから、「ビッグブラザー」あるいは「マスター」と呼ばれるようになったのである。それは、今も続いている。
---owari---
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