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関ケ原で負けても上杉家を存続させた ⑪

2022年08月27日 | 歴史
今回のシリーズは、直江兼続についてお伝えします。
兼続は上杉家の大黒柱で、米沢藩初代藩主 上杉景勝を支えた文武兼備の智将です。
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米沢城にこの報告が届いたのは、九月二十九日のことである。関ケ原合戦が行われたのは九月十五日だから、当時のコミュニケーション状況ではやはり二週間かかったということになる。兼続は、
「やはりそうか」
と暗澹(あんたん)とした。さすがに落胆した。たった一日で勝敗がつくとは思わなかったからである。が、
(石田殿が総大将では、そういうこともあるだろう。おそらく、裏切り者が次々と出たのだ)
 と判断したし、
その通りだった。

兼続は全軍に撤退を命じた。そして、
「殿はおれがつとめる」
と宣言した。このときの撤退ぶりは実に見事で、他国にも知られた。関ケ原合戦に参加した敵も味方もこのことを聞いて、
「さすが直江兼続だ。率先して殿の指揮をとったのは見事だ」
 と感嘆したという。

殿というのは、本軍を逃がすために次々と敵の追撃を受けてほろびていく。最後には全員討死にするのが普通だった。それを兼続はあえて引き受けたのである。

 
このときの兼続は世上いわれるように、
「上杉家を誤まらせた責任を取って、死地に身をおいたのだ」
 という説には筆者は与しない。兼続はそんな小さな人物ではない。

 米沢城に戻った兼続はすぐ上杉景勝と相談し、宿将(しゅくしょう:経験に富み、熟練した力量のある大将)本庄繁長を上洛させることにした。いうまでもなく徳川家康に謝罪するためである。

伏見にいる千坂対馬守(千坂景親:上杉氏の重臣で四家老家の一つ)を通じて、家康側近の本多正信や榊原康政に斡旋を頼んだ。直江兼続の人物を知る本多正信はとくに熱心で、この斡旋をよろこんで引き受けた。アヒルの水掻きのような活動がはじまった。

兼続は直接敗戦の責任者である。今でいえば戦争犯罪人第一号なので、表面には立たなかった。しかし、
「今後の政治情勢の中でも、上杉家は絶対に存続させたい」
 という気持ちは強い。そのためには屈辱を偲び、つまり耐え難きを耐えても我慢しようと心を決めていた。

兼続はこの段階ですでに、
「生き恥をさらして上杉家を守り抜く」
と決意していたのである。生き恥をさらすということは、安易に敗戦の責任を取って腹を切るなどしないということだ。その方が武士として余計つらいが、兼続はそのつらさに耐えようと考えていた。

 
だが、自分がノコノコ京都や大坂に出かけて行って徳川方と交渉するわけにはいかない。そこで心利きたる千坂景親を軸に、本庄繁長をこれに添えて、家康側近の本多正信や榊原康政を通じて調停を頼んだのである。同時に、兼続は、北ノ庄城(福井県福井市)の主であった、家康の息子結城秀康にも調停を頼んだ。

もちろん、
「徳川殿への謝罪方の斡旋を願いたい」
ということだ。これも、兼続にかねてから好意を持っていた結城秀康は快諾した。そして、
「上杉殿が上洛なさるときは、わしも一緒に行こう」
 と同行を申し出てくれた。

こういう非常の際には、理屈は通らない。なんといっても普段から築いた人間関係がものをいう。その点、兼続はしみじみと、
(おれはいい人びとに囲まれて幸福だ)
 と思った。直江兼続の幸福はそのまま上杉景勝の幸福につながる。

慶長六(1601)年、七月一日になって、ようやくアヒルの水掻きの努力が成果を生んだ。
「どうぞご上洛ください」
 と本庄繁長から通知がきた。

七月一日、上杉景勝は兼続とともに若松城を出発し、二十四日に伏見の上杉邸に入った。そして八月十六日に北ノ庄城主結城秀康に帯同されて、伏見城で家康に謁見し、謝罪した。
家康は翌十七日に、
「上杉家は旧領を没収し、米沢で三十万石を与える」
 と命じた。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

---owari---
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