先日投稿した、「法廷に神が降りてきた」が好評だったようなので、読者サービスで、ちょびっとばかり続編をば。
家庭連合の解散命令裁判。
原告文科省は200を超える陳述書を集め、家庭連合の解散へ向けて立証をせんとしている。
うち、数名の証人の尋問。
先日の報告 こちら のとおり、文科省側は、陳述書提出者が、自ら真摯に陳述書を作成したというよりは、文科省側(それをヘルプした某大手事務所弁護士?)の作成した陳述書を、ざっと見てサインした。
そんなことが分かる、ないしは高度に推認される尋問結果のようでした。
たとえば、客観的事実と異なる事実を問われても、それを頑として認めない。「忘れました」などと、小さい声で言い逃れる。
その「言い逃れる」態度は、だいぶ裁判官にも刺さったようでした。
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一方、家庭連合側証人は、堂々と、朗々と、俯仰天地に愧じず、といった様子で、尋問に応対。
相手方の国側証人(元信者)の境遇・態度に対しても、それを決して攻撃したり詰(なじ)ったりすることはない。
むしろ、そういう元信者を、
✓ 回心させることができなかった、
✓ 信仰の深い道にお連れすることができなかった、
✓ 神に会わせることができなかった、
✓ 神の下にお導きすることができなかった、
的に自責されている。
- 神は全ての人類を子としているのです。
- どんな人も神の子なんです。
- 神はどんな人も見捨てないんです。
- ですからどんな悪い人も神の子なんです。
- その神の愛を、その元信者に分かってもらうことができなかった。
- だから私の責任なんです。
- 私たち家庭連合の責任なんです。
- 今でも、私は、その◯◯さん(元信者)のために祈っています。
こんな応答が、東京地裁の法廷で、行われました。
なんと厳粛で、なんと神聖で、なんと崇高な、法廷であったことか。
そこに神が降りていた。
私はそう感じました。
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蛇足ですが、我々が信仰心を高め、宗教心を高め、精神性を磨き、崇高に、美しく、自責して生きることで、そこに神が降りてくる。
我々の立派な心の輝き、魂のほとばしり、愛の叫び、義の雄叫びに対して、神は満腔の愛を注がれる。
そういうことなのでしょう。