5才の
思ったことが
という
伝染病に
家中
来られまして
私は
消毒のにぉぃのする車に
出て行くのを
まるで
お葬式
並んで
下さいました
避病院に
着くと
もうだめなので
ほしいものを
与えてあげて下さい
振袖の
コッポリが
ほしい
母は
私に
コッポリを
だんだんと
きれいな世界が
黄色の
入りました
今でも
覚えています
けれど
たまたま
生きかえりました
光の世界は
います
その後も
伊賀上野の
9才になるまで
女学校で
結核にかかった
兄と
いて
父は
小学校の
単身赴任で
出たり
生活で
不在だったように
うっすらとしています
私は
忙しい両親に
仕事に行った
食事は
お女中さんは
私の
食事を
イチヂクの
埋めて
黙っていてくれました
それで
小学校で
養護学級の
いたのです
校長先生の
提唱していた
先生の
娘が
身体虚弱児童で
父の実家に
寄宿舎に入るまでの
大山田村での
健康な身体と
なりました
高校生に
行ってみましたら
病院の隣は
避病院は焼き場の横にあったのですか、知りませんでした。
たまたま、このブログを拝見して、同じ人がいると思って、懐かしくなってコメントしました。