1974年、今から40年の前の夏の終わりに、ひとつの命が誕生した。
仮死状態で生まれたその子は、数日後に容態が急変、1週間後には医師から「最後の宣告」を受けた。
難産のあと、ベッドを離れることができない母親には黙って、小さな小さな棺と、それを覆う白い布、花とおもちゃを用意した父親がいた。
その人が、40年前の、やの忠重さん。今、日本共産党18区の候補者として寒風の中でマイクを握る人だ。
医師の予想を越えた生命の力で、その子は生きた。
ひろしと名づけられ、何度も命の瀬戸際まで行っては帰ってくることを繰り返し、「鉄人ひろし」の異名をとった。
ひろし君は、大地を踏みしめて立つことも、声をあげて笑いこともなく、14歳で命尽きた。
ひろし君の父親、やのさんがすごいのは、「どんなに重い障害をもっていたとしても、生きている限り、学び成長する権利がある」と考え、ひろし君のために「医療」だけでなく「教育」を求めたこと。
そして、やのさんが本当ににすごいのは、重度の障害と病気を併せ持つ子どもたちのための学校をつくる運動の先頭に立ち続けたこと。
そのために岸和田の自宅と、病院のある京都を往復する毎日だったという。
病院のベッドで訪問教育を受けていた、ひろし君が12歳になったとき、病院のとなりに学校ができた。
その運動を一緒に担った仲間は、ひろし君を送るときに、次のような追悼の言葉をよせた。
「ひろし君、ありがとう。君が生き抜こうとがんばったから、君の、みんなの学校ができました。だけど・・・もっともっと学校に行きたかったね。」
やの忠重さんは、1996年秋、泉大津市長選挙の候補者として、初めてタスキをかけた。
告示前3日の立候補の表明にも関わらず、「借金財政で駅前開発暴走」の市政に疑問をもつ多くの市民を励ます堂々たる闘いだった。
選挙戦の最終版、やのさんはこう語った。
「最も重度の障害児の親として、学ぶ権利の保障を求めてきました。14歳で逝った長男の分まで、私は生きなければなりません。私にとって「生きる」とは、すべての人が大切にされる社会を築くために、みなさんと力をあわせることです。」
命の重みを知る人、人の痛みが分かる人、そして「大切なもの」を守るためには扉をこじ開け、道を切り拓く情熱を持つ人、この18区からたったひとりだけ選ぶ選挙区選挙で、この人を私達の代表として送りたい。
私心なく、国民の声を政治に届ける「ホンモノの政治家」です。
仮死状態で生まれたその子は、数日後に容態が急変、1週間後には医師から「最後の宣告」を受けた。
難産のあと、ベッドを離れることができない母親には黙って、小さな小さな棺と、それを覆う白い布、花とおもちゃを用意した父親がいた。
その人が、40年前の、やの忠重さん。今、日本共産党18区の候補者として寒風の中でマイクを握る人だ。
医師の予想を越えた生命の力で、その子は生きた。
ひろしと名づけられ、何度も命の瀬戸際まで行っては帰ってくることを繰り返し、「鉄人ひろし」の異名をとった。
ひろし君は、大地を踏みしめて立つことも、声をあげて笑いこともなく、14歳で命尽きた。
ひろし君の父親、やのさんがすごいのは、「どんなに重い障害をもっていたとしても、生きている限り、学び成長する権利がある」と考え、ひろし君のために「医療」だけでなく「教育」を求めたこと。
そして、やのさんが本当ににすごいのは、重度の障害と病気を併せ持つ子どもたちのための学校をつくる運動の先頭に立ち続けたこと。
そのために岸和田の自宅と、病院のある京都を往復する毎日だったという。
病院のベッドで訪問教育を受けていた、ひろし君が12歳になったとき、病院のとなりに学校ができた。
その運動を一緒に担った仲間は、ひろし君を送るときに、次のような追悼の言葉をよせた。
「ひろし君、ありがとう。君が生き抜こうとがんばったから、君の、みんなの学校ができました。だけど・・・もっともっと学校に行きたかったね。」
やの忠重さんは、1996年秋、泉大津市長選挙の候補者として、初めてタスキをかけた。
告示前3日の立候補の表明にも関わらず、「借金財政で駅前開発暴走」の市政に疑問をもつ多くの市民を励ます堂々たる闘いだった。
選挙戦の最終版、やのさんはこう語った。
「最も重度の障害児の親として、学ぶ権利の保障を求めてきました。14歳で逝った長男の分まで、私は生きなければなりません。私にとって「生きる」とは、すべての人が大切にされる社会を築くために、みなさんと力をあわせることです。」
命の重みを知る人、人の痛みが分かる人、そして「大切なもの」を守るためには扉をこじ開け、道を切り拓く情熱を持つ人、この18区からたったひとりだけ選ぶ選挙区選挙で、この人を私達の代表として送りたい。
私心なく、国民の声を政治に届ける「ホンモノの政治家」です。