こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

母の「お別れの会」

2015-04-29 19:19:33 | 父・母のこと
3月21日に亡くなった母の「お別れの会」で、日帰りで横浜へ。

長女とその二人の子どもたちも一緒に、南海電車の始発で関空から羽田。


次女とその家族は新大阪から新幹線で、三女は東京から、それぞれで参加。現地で合流です。


以前のブログにも書きましたが、母の生前の意志で献体の手続きをしていました。

「通夜、告別式は不要。そのかわり、できればささやかな『お別れの会』を」と母の書き残した通りに、今日の集いを二人の兄と私の3人の名前で案内しました。

(と言っても、準備は全て東京にいる兄達、私は今日の当日参加だけですが。)


親族と、母の教師時代の教え子の皆さんで、卒業してから毎年クラス会をして母と交流の続いていた方々を中心として、母を偲ぶ会でした。


会場は母の終の住まいとなった高齢者共同住宅のすぐ近くで、ディ・サービスなどで母も楽しいときを過ごしたお寺の広間をお借りしました。





会場には、母の絵、そして写真。







70歳を過ぎてから、絵を描き始めた母のたくさんの作品の中から、義姉たちが選んでくれた絵が並び、母の最初で最後の個展のようでした。

絵は、「よろしかったら好きな絵をお持ちください」と声をかけたら「え~!、いいんですか!」と声が上がり、飾った全ての絵を参加者の皆さんがそれぞれ選んで持ち帰ってくださいました。



遺体はないけれど、母自身の手による自画像を置いた祭壇に、参加者の皆さんに白いカーネーションで献花をしていただきました。

お花で彩られた祭壇はとてもきれいだったのですが、残念ながら写真はありません。



70歳を過ぎて尚、お元気な母の教え子の皆さんから、私の知らない母の話をたくさん聞かせていただきました。

参加者の中に、私の中学の同級生で、別々の高校に進学したけれど青春の時期を深く心通わせた友人の姿がありました。

40数年ぶりの思いがけない再会でした。母が会わせてくれたんだと思います。



母の部屋の押入れの目に付くところに置かれた「旅立ちの日」と書いた箱に、その日に着る着物、遺影代わりの自画像、そして「お別れの言葉」がありました。


表紙を今年の1月に描かれた母の遺作で飾り、「お別れの言葉」を参加者の皆さんにお渡ししました。





「お別れの言葉」の最後は「この後の世の中に大きな災害が起きないよう、ましてや戦争など二度と会うことのないよう、祈ります。」と言う言葉で結ばれています。


これを書いたのは、東日本大震災以前だったようで、「大きな災害」という文字の横に、赤字で おきてしまいました。2012年3月11日と添え書きがあります。


母が「旅立ちの日」の箱を用意したのは、20年以上前のこと。母が大阪に住み、私と私の幼かった子どもたちの暮らしを支えてくれた時期でした。


除夜の鐘 ききつつ今年も「旅立ち」の

衣装収めし箱 確と閉ず



1994年年末、母72歳のときの歌です。








コメント (2)
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