じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ロブチェ~ゴラクシェプへ

2014-12-08 16:17:13 | ネパール旅日記 2014
 
 11月12日 水曜日 快晴
 ロブチェからゴラクシェプ、そしてエベレストベースキャンプへ。

 7時30分 ゴラクシェプを出発。
今日はゴラクシェプまで約10キロを歩き宿に荷物を置いてエベレストBCへ向かう。
これは楽しみにしていた。
なんと言っても、あのエベレストへ登る為のベースキャンプへ行くのだから興味津々である。

 
アマダブラムに月が昇った

 ロブチェからゴラクシェプへはかつて氷河であったと思われるモレーンの谷を行くのだが、人が住んではいけない場所だなと思う程に荒涼としていた。
相変わらず片栗粉か粉砂糖かと言う程に粒子の細かい土は少しの風でも舞い上がって厄介だった。
所々に氷河が溶けてできたと思われる湖があった。
湖は殆ど凍っていたが陽が当たり溶けている所の水の色を見ると乳白色に見えた。
おそらく泥が溶けてミルク色になっているのだ。
成る程と頷けた。
この道の細かな粒子の土は氷河とともに流れていた泥だったのだ。
水が乾いて泥が残った物で土では無いのだ、と、勝手に推測したみたが・・・。


雪の季節には閉鎖されるゴラクシェプの宿

トレッキングルートの人の多さに宿の確保が心配になったと、ラムさんが一人で先を急いだ。
ゴラクシェプは人気のカラタパール登山のベースであり元々混む所らしかったがここ数日は異常だと他所のガイドも話していた。
理由は、アンナプルナサーキットの事故と峠の閉鎖でトレッカーがエベレスト街道に集中しているのだろうとの事だった。


今夜の宿はテントだった

9時30分ゴラクシェプ着。
ラムさんが急いだ甲斐も無く今夜の宿はテントだった。
自分らは到着順的には相当早い方なのだが、標高5200mの寒さに耐えられる寝袋を持っているのでラムさんがテントを選んだ気がしてならない。
ラムさんの寝床も無いとの事でテントに同宿となったのが怪しい。

ここより先に宿は無く、駄目だとなれば4キロ程下の宿に戻るしか無い。
明日のカラパタール登頂を考えればテントでも寝床の確保が最優先だった。

テントに荷物を押し込み昼食を食べ暫し休息。
分厚いマットが敷かれたテントの中は陽が当たって暑いくらいで快適だった。


エベレストベースキャンプへの泥が乾いた道

標高が5000mを超えてからは少し動くと息切れがする。
自分では意識してい無いのだが、出来るだけ多くの空気を吸おうとして常に口を大きく開けていた。
意識してゆっくり歩いているのに苦しかった。


氷河は僅かずつ下に動いている(エベレストの頭が見える)

ここまで来ると完全に人間が住む所では無いと確信する。
草木は微塵も無く、生き物と言えば、トレッカーと宿の周りのカラスだけであった。


山は万年雪で氷河では無い(手前の白い凸凹が氷河)

ラムさんが、クンブー氷河はもっと大きかったが急速に融けている、温暖化ですね、と言った。
私は地球温暖化説には懐疑的な方なのだが、現実に氷河が後退していると言われると反論もし難く黙っていた。


氷河に向かってヤッホーをするラムさん?

ゴラクシェプの宿からエベレストBCまでの標高差は220m、距離は6キロ弱程度と、標高が5000mを超えていなければ1時間で行けるのだが、如何せん息が苦しくて速度が出ない。
快晴の空の直射日光は強烈で無風なら暑くてダウンジャケットを脱ぎたくなるが一度風が出ると寒くて毛糸の帽子で耳まで被いたくなる。
こんな調子ではアイランドピークどころか明日のカラパタール登頂も覚束ない、と弱気になる。


どう言う経緯でこうなったのか想像はつくが

喘ぎながらもなんとかエベレストベースキャンプに着いた。
今はシーズンオフで登っている登山隊も無くただの岩場に賑やかなタルチョが旗めいているだけだった。
何か、もう少し感動的なものを期待していたのだが拍子抜けだった。


ラムさんと記念撮影

ラムさんがエベレストに登った時のベースキャンプはここより少し上でウェスタンクムの氷河の下だったと言う。
そして、来年のベースキャンプがここかどうかも解らないのだそうだ。
その年の雪や氷河の具合で少しずつ変わるのだとか。
実際地図にはオールド エベレストBCとの記載も有る。

エベレストBCから中国の国境までは直線で2キロも無く、Lho La(ロー峠)6026mを超えて中国へ続く道が在って今なら越せると言うが相当な難所でトレッキングでは無くエクスペディションだそうだ。

僅か220mの標高差とは言え登りが辛かったのか、エベレストBCからの戻り道は意外と軽快だった。

宿に戻りブラックティーをポットで貰いテントでのんびりする。
下手に陽の当らない部屋よりもテントで良かったかも知れないと思ったのは陽が在る間だけだった。
夜間、テントのすぐ前に荷役のヤクが数頭繋がれた。
ヤクは静かで鳴きもしないのだが、首に付けたカウベルが夜通しカランコロンと静かに鳴るのだ。
昼間はのどかで良い音色だと思っても、寝床の耳元で聞かされると騒音以外の何物でも無かった。
そして、標高5200mのテントは日が落ちると急速に冷えて寒かった。

夕食時に日本人の青年と相席した。
アベ君は会社を辞めてトレッキングに出て来たと言う事で、カトマンズからジリまでバスで来て歩いてルクラに入ったと言う強者だった。
聞けば、山登りは殆ど経験は無く、長期のトレッキングも初めてだと言う。
若いって恐ろしい。
そして、羨ましい。


ダイニングも通路も満員で、彼は普段はポーターが泊まる部屋が宛てがわれていた。



 19時00分 就寝

 11月12日 酸素濃度 データー

  ロブチェ(4910m)75% 心拍数70 (AM6:00 寝袋の中で)
 



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ディンボチェ~ロブチェ

2014-12-07 15:41:09 | ネパール旅日記 2014
 11月11日 火曜日 ディンボチェからロブチェまで10キロを行く。

7時40分ディンボチェを出発。

朝になって「お湯代」を500RP徴収されたのだが、私が貰ったお湯は500ccのポットに2本で1ℓで、宿の1.5ℓ入る中型魔法瓶の250RPより相当割高になっている。
しかし、これに文句を言ってもどうにも成らない事を知っているので黙って支払った。
そうなのだ・・・事前に確認しなかった自分が悪いのだ。
日本人とネパール人は物事の考え方が根底から違うのだと自分に言い聞かせて事を進めないと何をやっても腹が立つばかりなのだ。
我慢では無く、違いを認め納得しないと楽しく無くなってしまうのだ。


緑が見られる最後の風景

緩い登りが続き、灌木の緑が見られる道を行く。
標高4500m程の開けた谷間は陽当たりが良く暖かい。
夏場はヤクの放牧場になるようでヤクカルカが見られた。
ヤクカルカとは、石垣で牧草地を囲い夏場にヤクを放牧する所であるが、地名としても使われ、地図上にもヤクカルカは彼方此方にあった。


陽射しを受けて半袖でもと思うが 川は凍っている

ラムさんがヤクカルカには必ず近くに水場が有るから知らないルートを歩いて水場を探す時にはヤクカルカを探すのだと教えてくれた。


夏になると石積みの小屋に泊まり込んでヤクの世話をする

峠の頂でもないのにタルチョが旗めきゲートのようになった所を通過すると丘の上に沢山のケルンや石塔が見られた。
エベレスト登山で犠牲になったシェルパやポーターのの慰霊碑だった。
今年も5月のルート工作の時に7~8名のシェルパが犠牲になっている。


何の為のタルチョか知らずに記念撮影をしたが

沢山の石塔を左手に見ながら少し行くと立派な白い石碑が立っていた。
エベレストで命を落としたのか、日本人の名が刻まれた慰霊碑だった。


行く先には雪と氷で白い峰が壁のように列ぶ

行程表には4時間半と有り、地図で見ても気になる登りも無いのだが、歩いてみるとそこそこ厳しい道だった。

乾き切った土は粉砂糖よりも細かな粒子で人が歩いても土埃が舞い上がる。
正面から風が吹いて来るとそれは余計に酷くなり後の人は土埃を吸い込み難儀する。
ラムさんが休憩しますと言う時にも、休むと立つのが嫌になるからと言って自分は歩き続けた。
休みたく無い訳では無かったが土埃を避ける為にも一人で歩きたかった。
しかしラムさんの足は速くてそれ程の間を置かずに追いつかれるのだったが。

11時頃に宿に着いた。
殆ど一番乗りなのだが独りなのであまり良い部屋は貰えなかった。

ヒマラヤの宿のシステムは少し特殊で、宿泊代はとても安い。
安い宿は200RP程度で、高くても300RP程だった。
宿は宿泊した人の食事や水などの代金で潤う事になっている。
そしてもう一つの特徴は、ガイドやポーターは宿泊も食事も無料なのだ。
そのシステムで行くと沢山の客を引き連れたガイドが上客で、一人のお客でガイドとポーターがついている客は利益が薄い事になる。
私の僻み目かも知れないが、このシステムのせいで宿に一番乗りしても良い部屋は貰えていないと思うのだ。
客が少なく宿に余裕がある時ならば部屋も選べたと思うのだが、遅く来た人はダイニングで寝ている事を考えるとラムさんは精一杯頑張っているとも思えるが。

昼食を食べ一休みしているとラムさんが散歩に行こうと誘いに来た。
すぐ近くにとても眺めの良い丘が有るから登ろうと言うのだったが、自分としては、どうせ山しか見えないのだから沢山だと思ったが断われずに出掛ける事にした。
近くの丘だからスリッパで良いかと言うと登山靴を履いて手袋と水も持った方が良いと言う。
うひゃぁ~、またラムさんの高度純化のプログラムかと覚悟した。

行った先は完全な岩山で2級から場所に因っては短いが3級程度もあり楽しかった。(3級は万が一の為にロープで確保したくなる程度の岩場)
しかし、標高差200m程度を登るのに息が切れるのは5000mの高地だからなのだろう。

疲れからか、また食欲が無くなった。

夕暮れ時、寝袋に潜って日記を書いていたら窓から西日が入って山が燃えているのがわかった。
今カメラを持って少し高い所に登れば相当良い写真が撮れるだろうと思ったが出て行く気にはならなかった。
言い訳は、ろくなカメラを持っていないから、だった。

トレッカーの中には重い一眼レフに大口径の望遠レンズを付けたカメラを持ち、ザックにはしっかりした三脚もくくり付けられている。
プロ並の器材を持って何を撮るつもりなのだろうか?と興味が湧くがヒマラヤで山を撮ったのでは話しに成らないだろうと思うが、先日のナムチェの子供の例もあるし・・・ヒマラヤの写真も煮詰まっている感じがするな、などと思ってみる。

夕食の時間にダイニングに行くと本当に座る席が一つも無い超満員だった。
ラムさん他のガイドが隅の方に固まっていて席を一つ空けてくれた。
昨夜同じ宿にいたガイドが自分の隣の部屋の男性がディンボチェからヘリでルクラに戻った事を教えてくれた。
隣はご夫婦だったのだが一晩中男性の空咳が聞こえていて拙いなと思っていたのだが、やはり高山病が悪化したようだ。

この夜、ラムさん達ガイドはダイニングに寝る事になっていたが、他にトレッカーが4~5人寝るのだとか。

 17時30分 就寝・・・軽い頭痛があるが他に症状は無い

 11月11日 酸素濃度 データー

 ロブチェ (4910m)82% 心拍数102 (PM2:30 休憩後)
 
 



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何処を見ても山しか無い!!!

2014-12-07 09:22:10 | ネパール旅日記 2014

 11月10日 ディンボチェにて (日記より抜粋)

 5100mの裏山への登山はきつかった。
高度順応の鉄則から行けばゆっくり登るべしなのだが、性分からか、全力で登った。
久し振りに巨人の星を唄う所まで追い込まれたが足は止まらず・・・ここに来て絶好調か?


Tobochekの前衛峰 名の有る山より魅力的だ

5100に登りディンボチェの宿に降りて来たら全身に酸素が行き渡る感覚で呼吸が楽になった。
高度順応は完璧かも知れない。
何よりも食欲が出た・・・晩飯は肉が喰いたくてヤクステーキを喰った。

 歯磨きの作戦。
練り歯磨きの類いは口を濯ぐのに水を必要とするので今回はモンダミンを100mlで3本持って来た。
昨年のアンナプルナで歯磨きを疎かにし、帰国後大変な目に遭ったので今回は「ヒマラヤでもしっかり歯磨き」を励行する工夫をした。
100均で買った歯ブラシケースに入れた歯ブラシと20mlの小瓶のモンダミンを常時ウエストバックに入れて持ち歩き、食後時間があれば歯ブラシを使い、ダメな時でも口を濯ぐ事にした。
水を1滴も必要としないこの方法はヒマラヤに限らず泊まりの山行では使える手であると思う。


ボディーシートは必需品!!!

 顔は一度も洗わなかった。
「壮快ボディーシート大判」を一日に一枚使い顔と手足を拭くのみだったが氷水で洗顔や身体拭きは現実的に不可能な高度ではこの方法しか無いと思う。

 ふりかけは疑問符付
ヒマラヤの食事の味は標高に反比例して下がり、総ての物価は標高に比例して上がる。
宿の食事は一般的に標高が上がると味が落ち、値段は上がる。
総ての食料と燃料が下から担いで運ばれて来るので値段の事は仕方が無いと思う反面、ポーターの運賃からすると乗せ過ぎじゃないか?と思う事も多々有るが。

米の飯は標高に比例して味の落ちが顕著で、不味いご飯をふりかけで誤摩化して食べられる人は現地のおかずでもたぶん食べられる。
地元民が使う簡易的な圧力鍋を使っている宿の飯は不味く、ここは美味いと思う宿では高級な圧力鍋を使用している・・・と,思う。


アレ、登れそうだよねとラムさんに言うと否定はしないが

 何処を見ても山 それがヒマラヤ
カトマンズから飛行機でたった30分でルクラに着く。
ルクラからは6000mの雪を被った山が見えヒマラヤが始まる。
トレッカーが一番感激するのはここじゃないかと思う。
イントロはカトマンズからの飛行機の窓から見えるヒマラヤの峰々だろうか?
そして、トレッキングの始まりの頃、まだ遠くに見える山のどれを見ても感激し、ワクワクしながら歩く。
しかし、行程が進み日替わりで有名な山々に接するようになると感動の質が変化する。
著名な8000m峰を見て喜ぶのは最初だけで、それらの山は必ずしも美しいとも限らず、それよりも一般には興味も持たれない無名の6000m峰が断然美しい事が多いのだ。
自分の居る標高が上ると6000m峰は目線と同じ高さになって迫力的には薄くなる。
そんな時でも8000m峰ははるか上に聳え立ち威容を誇るのは流石の迫力で有る。
しかし、間近に見える6000m峰は簡単に登れそうかと言うとそんな事は無く、何処から登れるだろうかと探ってみても殆ど自分には手が出ないと思う山ばかりだ。
ラムさんに、あの山はどうやって登るのと尋ねても、ルートは無いからエスクペディションでキャラバン組んでルート探して行くしか無いね、と言う。
今ネパールでは100座以上の6000m峰が新たに登攀解禁になり、その中には多くの未踏峰が含まれているが、本物のエクスペディションは料金が高くて自分等には手が出せない。

ラムさんが10月に日本人のお客に請われて6400mの未踏峰に挑んだそうだ。
クライマー1名にガイドとキッチンテントのコックとボーイ、ポーターで総勢9名のキャラバンになったそうだ。
期間は1ヶ月で費用は12000ドル。
残念ながら大雪に見舞われ時間切れで初登頂はならず、だったそうだが。

時々、宿に着いた午後の空き時間に無名のピークを見ていて、あの山に向かって行ったらたぶん死ぬだろうなぁ、と、思いつつ、そう言う生き方も悪く無いな、と思ったりする。
しかし、それって生き方じゃ無くて死に方だよな、と、気が付いて一人で笑っていたりする。



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ディンボチェ滞在

2014-12-06 10:44:50 | ネパール旅日記 2014
 
 11月10日 月曜日 ポカルディの前衛峰(5100m)へ登る

本日は5時出発で高度順化の為にポカルディの前衛峰に登ると言うので4時に起きて準備していた。
昨夜ポットに入れてもらったお湯でポカリを作り準備していたものとソイジョイを一本食べてラムさんが来るのを待っていた。

5時00分、ヘッドランプを灯して出発。
標高4400mの早朝は思ったよりも寒く無いと思ったが、宿の前の道は凍りつき、風の当る場所に出ると手足が痺れた。
足はまだなんとかなるのだったが手が冷たくてたまらなかった。
登山用の手袋では無く100均で買ったカラフルな軍手のような物をしていたのが失敗で、防風効果が殆ど無かった。
フリースの上にダウンを着て股引を履き毛糸の帽子を被っていて手足以外は平気で、寒いのでは無く冷たいのだ。
いや、冷たいと言うよりは痛い、だった。


ディンボチェからポカルディへ登る道から村を見下ろす

ディンボチェの村からさして高くも無いところにタルチョが見える。
目測で計って標高差は300mも有るのかどうか、で、1時間も有れば登れるだろうと思った。

昨日ダイヤモックスを買いに出た時にラムさんがその頂を指差し、明日はあれに登りますと言った。
私は、あんな所で高度順化になるの?標高差で300m、ゆっくり歩いて1時間だね、と言った。
ラムさんは、そんなに簡単でもないですけど気張って登る程でもないです、と言って笑っていた。

痛さを通り越して感覚の無くなった指を擦ったり叩いたりして刺激しつつ歩いたのはそれ程長い時間ではなかった。
東に面した丘は宿のある盆地よりも相当早く陽が当たり、5時半には夜が空け、6時頃には風も止み温かく感じるようになっていた。

私はアイランドピークアタック時の服装を考えていた。
早朝、陽が昇るまでの極寒と夜明け以後、陽が当たってからの暑さ対策をどうするべきかを考えながら歩いていた。
弱点は手足の指先なので打つ手は限られている。
手袋を重ねればユマールやピッケルが握り難くなり、下手に靴下を厚くすれば指がきつくなって血流を疎外し余計に冷たくなる。
結論は、昨年のピサンピークと同じで行くしか無いな、と言う事だったが、それで凍傷などの危険も無かったので我慢出来る範囲は無視する事にした。

夏場はヤクの放牧地になる斜面には「ヤク道」が縦横に走り登山道を無視しても登れた。
先頭を行く私は、なるべく傾斜の緩そうなジグザグ道を拾って歩きラムさんが後を着いて来た。
時々ラムさんから、右方向ですとか、もっと左に行きましょうなどと修正する声が掛かった。
昨年のガイドのドルジとラムさんには大きな違いが有って、常に前で引っ張るようにして歩くドルジに対してラムさんは、自分のペースで歩けと言って私に前を歩かせるのだった。
当然自分のペースで歩く方が楽で結果的には目的地までも早く着いていた。

距離にして2キロ程度で標高差700メートルを登るのは日本の山でもそこそこきつい。
日本の山でもそこそこきつい登りを標高5000メートルでやるのはとてもきつい。
陽が当たるまでは休むと冷えるので歩き続けたが御来光を拝んだ後からは写真を撮る振りをして足を止めていた。

途中の岩陰でキジを撃った時に高度計を見ると5000メートルだった。
そうか、今年も5000メートルの高所でキジを撃てたかと少し感慨に耽りつつ、残り百メートルか、一踏ん張りだなと気合いを入れる。


後のピークはNangkar Tsang5616m 登山道は無い

7時20分タルチョが旗めくピークに到着。
そこから先に道は無かった。
ラムさんがここまでです、と言って腰を下ろしクッキーを取り出し「どうぞ」と言った。
手元の高度計では5100mを少し超えていた。
しかし、目の前には見事な岩凌と尖ったピーク群が見えていてここで終わりと言われても納得がいかなかった。
ラムさんに、この先まで登る事は無いのかと問うと、見た目よりも岩が脆くて難しいとの事だった。

下から見た時に小さな棒が立っているように見えてものは高さ5m以上は有る柱だった。
ヒマラヤの山は下からは小さな丘に見えても登ってみると意外と大きくて厄介な事は経験から覚えたつもりだったがまだまだズレは修正され切っていないようだった。

ラムさんが谷側を覗いてみろと言うので身を乗り出すと身体を預けている岩の向うは切れ落ちていて何も無かった。
しかも岩は体重を預けて押すと動くのだ・・・一瞬で肝が冷えた。
そこから眺めた岩場が3級から4級くらいで美味しそうだったので「ラムさん、ロープ持ってたら楽しそうな岩だね」と言うと、ラムさんもクライミングが好きだそうで、カトマンズの近くにボルトの打ってある岩場が有るから下山したら行きましょうか?と誘われた。
いやいや、もう岩にしがみつくだけの握力は無いので言うだけなのだが。

クッキーを食べ、だいぶぬるくなったポカリを飲んで下山に向かった。
このピークはカラタパールに向かう人やアイランドピークを目指す人が高度順化をするのに登るらしく結構な人が登って来ていた。
自自分らは今朝の一番乗りだったようだ。

5000mの陽射しは強く半袖でも汗をかく程の暑さになっていた。
喘ぎながら登って来る人達を見て閃いた。
ラムさんが早朝のスタートをしたのは、気温の差を教える事や、ヘッドライトで岩場を歩く事の練習だったのかも知れないと思った。

9時頃には宿に戻り朝食を食べ、後は終日休養となった。


 19時00 就寝
 
 11月10日 酸素濃度 データー

 ディンボチェ (4410m)85% 心拍数85 (AM10:30 休憩後)
 



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ディボチェ~ディンボチェへ

2014-12-05 12:25:00 | ネパール旅日記 2014
11月9日 日曜日 ディボチェからディンボチェへ

ディボチェは寒かった。
体調が悪いのか、未だ寒さに慣れていないのか、とにかく寒かった。
日中のトレッキング時の服装に加え、股引を履き極厚のダウンジャケットを着て、毛糸の帽子を被って寝た。
潜って寝るダウンの寝袋はメーカーの宣伝文句では氷点下20度は楽にこなすと言う、厳冬期用寝袋だった。
これ以上の防寒着は持っていないところまで着込んで寝て暑くも無かったと言う事は、この先標高が上がりもっと冷え込んだ時には打つ手が無いと言う事になる。
高山病の初期症状に「冷え」は無かったと思うんだがなぁ~などと思いつつ、食が細くなっているので燃料不足か?とも考えられた。

7時にダイニングに行くと既に殆ど席が埋まっていた。
私はカチカチのトーストに、寒くて固まった蜂蜜を乗せて食べた。
蜂蜜の塊を噛んで食べるのは美味くも無く違和感も有ったが、これがエネルギーの元と言い聞かせて飲み込んだ。
熱いはずのブラックティーはあっという間に冷めてしまう。
ゆで卵は自分の最後の砦でこれならいつでも食べられるとあてにしていたのだが、今朝は一個しか食べられなかった。
卵と塩をティッシュに包んでポケットに入れた。
何処かで腹が減ったら食べようと思ったのだが、結局食べずじまいでディンボチェで捨てた。


陽が当たらなくて寒い谷にイムジェ・コーラの風が吹く

7時45分、ボチボチ行きますか?と日本語で言うラムさんに促され重い足を運んだ。
3820mのディボチェから4410mのディンボチェまで、イムジェ・コーラの川沿いの道を10キロ程行く予定だった。
標高差600mを10キロで行くのは緩い。
地図で読む限りは緩い道なのだが、しかし、実際に歩いてみると緩い道と言うのは無くて毎日がきつかった。
家を出てから7日、歩き始めて5日目、高度が上がった事も理由かも知れないがそろそろ地力的に疲れの出る頃でもあった。


峠にはチョルテンが建ちタルチョが旗めいている

昨日までは前を行くトレッカーを目標に、彼らを何処で追いつき追い越すか、などと遊びながら歩いていたのだが今日はそんな余裕は少しも無かった。
ラムさんが私の不調を感じたのか、ビスターリ・ビスターリ、ボチボチ行きましょうと声を掛け、こまめに足を止めてくれた。


アマダブラムの姿が変わったと言って休憩するラムさん

エベレスト街道のトレッキングは自分でパーミットを取得してガイド無しでも廻れる。
そして、今年の9月からは6000m以下のトレッキングピークの幾つかは登山のパーミットを必要とし無くなりガイド無しで登れるようになった。
それの代表が5550mのチュクンリで、早速ベースになるチュクンの宿は賑わっていた。

6000m以上、6500m以下のピークはネパール山岳協会への申請でパーミットが貰え、費用も安く登る事が出来るが、それでも公認のガイドと一緒でなければ登れない事になっている。
自力で全装備を背負い名目だけガイドを雇い登る事は可能だが、技術的な事はさて置き、相当なボッカの力が無いと身体が持たないだろうと思う。
私も昨年ピサンピークで酷い目に遭うまでは「自力登山」に結構こだわっていて、自前で装備を背負い登りたいと思っていたが今はそんな事は微塵も思っていない。
昨年の経験から、この歳になると万が一の時に余力が無さ過ぎる事を自覚した。
ポーターに荷物を背負ってもらい、ガイドに導かれて登る大名登山は本来の自分の流儀には反するが、己の自己満足だけの登山なら、取り敢えず自分の足で登りましたと言う事実で「登頂」と言って良いと思うようになった。


アマダブラムが違った角度で迫るディンボチェの宿

11時45分頃、休み休み歩いたと思っていたのだが予定よりも早くディンボチェの宿に着いた。

広い谷に開けた陽当たりの良い宿は庭にいても暖かく、気持ちが緩んだ。
この陽射しを見逃す手は無いと思い昼飯の前に洗濯をし、序でに頭を洗い上半身裸になって身体も拭いた。
それを見たラムさんとカンニさんも洗濯物をしつつ身体を洗い、皆して石垣にパンツや靴下の万国旗を並べた。
すると今度は庭で日向ぼっこをしていた白人のおばさんが、我もやらねばと言う感じで参加し、大量の洗濯を始めた。

洗濯が終わるのを見計らったかのようにして頼んでおいた「トマトソーススパゲッティー」が中庭のテーブルに運ばれて来た。
これは新鮮なトマトを潰してソースと言うかスープのようにしてあるもので酸味が有って美味かった。
ポットで貰ったレモンティーを飲みながらアマダブラムを眺め日向ぼっこをして寛いだ。


宿の隅の石壁にはヤクの糞を投げつけて乾かしていた

陽当たり、眺め、開放感と、久し振りにのんびり出来そうな宿だった。
そして宛てがわれた部屋も東西両面に窓が有り、陽当たり抜群で暖かかった。
この宿には高度順化の為に2泊するので殊更嬉しかった。


Imja Tse(アイランド・ビーク)6189m

宿の裏手に行くとアイランド・ピークの全景が見えた。
対面したアイランド・ピークは思っていたよりもどっしりと見栄えが良く、なぁーんだ的で残念な要素が見られず感激した。

アイランド・ピークに登ろうと決めた切っ掛けは昨年のピサンピークで悲惨な思いをした時にガイドのドルジが、アイランドピークなら苦しまずに楽に登れると押したからだった。
しかし、目の前にあるアイランド・ピークに隙は無く、何処から登れるのか見当がつかなかった。
後で地図を良く見るとディンボチェから見える面からの登頂は無く、裏に回って等高線の緩い稜線から攻める事が解った。

夕方近くにラムさんが洗濯物を取込んで部屋に持って来てくれた。
すべてパリッパリに乾いて気持ち良かった。
そして、ダイヤモックスを売っているかも知れないから見に行こうと誘われた。
ラムさんはディンボチェには良く滞在するとの事で通り沿いの店は皆馴染みだった。

歩いてすぐ、こんな辺鄙な処にまさかと思うような素敵なケーキ屋に入り明日の行動食だと言うクッキーを買った。
明日は宿からも見える裏手の丘に登って高度順応をする予定だった。

陽当たりの良いガラス越しのテーブルには美味そうにケーキを食べる二人の白人が座っていた。
一個450円のチョコレートケーキ・・・食べたかった。
しかし値段もさる事ながら省エネ体質に移行しつつ有る段階なので空腹に糖質の塊を採るのは控えなければ、と我慢した。

ダイヤモックスは売っていた。
25mg1シート10粒で500ルピー(600円)だった。
緊急時には一度に3粒の服用と指南書に有った事を思い出し2シート買った。
ラムさんにはお守り代わりだからと言ったが、早速今夜から朝晩半分ずつ、一日1粒服用する事にした。

夕食時にダイニングに行くと昨夜の宿のメンバーが殆ど揃っていた。
皆して目が合うと軽く頷くなりして挨拶をする。

昨夜私に高山病の講義をしてくれたご夫婦は見当たらなかったが日本人と思しき若い男性が一人で座っていた。
私は意識して近くに座り話しかけたが日本人では無く韓国人だった。
お互い変な英語を気にしつつもあれこれ話し、カラタパールとチュクンまで同じルートである事を知った。
その後別の宿でも度々会い一緒のテーブルに座った。
相席で知り合った人にはポーランド人やスイス人、カナダの国旗を付けたアメリカ人などが居て、その人とも何度も会っているのに軽く挨拶する程度で積極的に話そうとはしなかった。
しかし、韓国人の彼とは何故か近付き、姿を見れば一緒のテーブルに呼び合っていた。
何処かに同じアジア人と言う感覚があるのだろうか? 不思議であった。

夕食にはトマトと野菜のピザを食べた。
これも当たりでそこそこ美味しく完食出来た。
ミルクティーをお替わりして三杯も飲んだからか、それとも空腹時に服用したダイヤモックスが効いたのか小便が近くなっていた。

ダイヤモックスの副作用として「頻尿」が言われているが、高度順応がきちんと出来ると止まると言われている。
お茶の飲み過ぎなのか、高山病の気が有っての頻尿なのか解らないが、お守りの薬が手に入った事で気が楽になったのは確かだった。


 19時00 就寝
 
 11月9日 酸素濃度 データー

 ディンボチェ (4410m)83% 心拍数100 (PM2:30 休憩後)
 ディンボチェ (4410m)79% 心拍数80  (一眠りした後)

 
 追記

ここまでの血中酸素濃度と心拍数の関係から、休息後や安静時で心拍数が低くなると酸素濃度が下がる事が解った。
指南書に因れば安静時の値を計る事になっているが、脈拍が上がると酸素濃度も上がるのであれば高山病予防や解消には心拍数を上げておいた方が良いのでは無いかと思うのだが。
高山病を患うと寝ている間に悪化すると言われるが、データーから推測すれば当然だと言えるが。
そもそも、どの標高で何処まで下がったら危ないのかが良く判っていない。
平地の病人なら90%を切ったら一大事でチアノーゼも見られると有るが80%など何度か切っているがそんな兆候は見られない。
高所登山の研究データーでは標高5000mでは80%台を維持していれば問題無いとも書かれているが。
安静時の心拍数が60程度まで落ちると言う事は、持久力的には身体は参っていなくて酸素も足りていると言う証しだと思うのだが。


つづく



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