庭のナデシコ花盛り
もう罪を犯してはいけない 26
十字架とは、神様が律法を廃することができないゆえになされた御業なのである。イエス様が、私たちの罪の結果をすべてその身に負われ、罪の代価をお支払いになられた。神様の愛は、私たちを救うために律法を廃されるのではなく、律法を守ることができる者にして下さる愛なのだ。
罪を犯した人類を救うために、その罪を背負い、十字架にかかって死なれることを決心されるほどの愛だ。それは私たちを、戒めを守る義務から解放してくれるためではなく、戒めを守ることができる者にして下さる愛なのだ。
神様の愛はその慈しみに劣らず、その「義と公平」にも表されている。「義と公平」はその方の、「みくらの基」で、その方の愛の実だ。
「義と公平はあなたのみくらの基、いつくしみと、まことはあなたの前に行きます」(詩篇89篇14節)
キリストはご自分の生涯と死を通して、神様の義と公平は、その方の慈しみと反しないということ、不義は赦され、同時に神様の律法は正義であって、完全に服従することができるということを証しされた。キリストは、全人類に神の愛の明白な証拠を示された。
サムエルの経験 7 ハンナの熱烈な祈り
そういうわけで、バプテスマのヨハネは、当時の教会の指導者たちやラビたち、祭司たちに向かって「まむしの子らよ」と言ったわけです。なぜなら彼らは改心していなかったからです。ハンナは神の教会の真の民を表していました。本当の神の子供を神様からいただきたいと、神様と格闘している人の象徴であったわけです。ハンナは祈っていました。神様に本当の息子を与えてくださいと、熱心な祈りをささげていました。
教会で、聖所で彼女が祈っていましたら、大祭司エリがそれを見て、あの女は頭がおかしいと思ったのです。もう自分の魂をそそぎだして、彼女は熱心に祈りをささげていたわけです。
実際に多くの人たちがやってきて、教会にやってきてお祈りをしますね。たいていのお祈りは普通の人と変わらない、普通のお祈りなんです。あたかも、あるときには単なる儀式的な形式的な祈りと化しています。それは本当の祈りではないのですね。しかしハンナは神様に心を注ぎだして祈っていました。そして神様と格闘していたのです。しかし、そういった様子はエリにとっては狂信的に見えたのです。その状況を私たちの経験と当てはめてみてください。エリは彼女が酔っぱらっているのかもしれないと思ったのです。