もう罪を犯してはいけない 27
(2)十字架は人類への神様の愛を語る
イエス様は、人間が受けるもっとも残酷な仕打ちを受けられながら、カルバリーまで行かれた。それは、私たちの魂を救い出すためなら、十字架につくことさえいとわない愛だ。イエス様は、天地創造以前から、もし人間が堕落するなら、その罪を代わりに負うと決めておられた。イエス様は地上生活の間も、天におられる時でさえ、常に十字架の陰の中で生きられた。それで使徒ヨハネは、イエス様のことを「世の始めから屠られた小羊」(黙示録13章8節・欽定訳) と表現した。
神の律法は、神様と同じように神聖なものだ。それだから、律法を定められた神様ご自身が、罪を贖う救い主になる必要があった。律法を犯した責任を、代わりに引き受けることができるのは、律法を定められた神様ご自身でなければならなかった。そのために、神様は直接人間になられて、人間の代わりとして十字架に架けられて亡くなられたのだ。
サムエルの経験 8 サムエルを呼ばれる神様
そこで、エリはハンナの所へ行って「どうして神の家であなたは酔っぱらっているのだ」と彼女を叱ったわけです。サムエル記上1章の10節と11節をご覧ください。お読みします。ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って激しく泣いた。そして誓いを立てて言った。「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、私を覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜りますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげかみそりをその頭にあてません」。
ハンナもまた教会に聖霊の欠けているのを見ていました。そこで、彼女は神様から息子を授かったならば、教会の霊的指導者になる息子にしたいと願ったわけです。日本にもハンナのような母親がいますか。イスラエルの母、教会の改心を強く願っている人物、みなさんも教会のために祈っていますか。霊的に満たされるべき指導者のために祈っていますか。後に彼女は、子供を身ごもっていることがわかりました。その時から聖所に行くのをやめまして、祈りのうちに、サムエルという授かった息子を、彼女は懸命に育てました。何年か経ちまして、幼い息子サムエルを聖所に連れてきました。そして、この聖所の働きに自分の息子を捧げたわけです。ハンナの物語、皆さんもよくご存知だと思うのですが。そして、その後サムエルがどうなったか。皆さんもよくご存知のように、ある晩寝ていたら声が聞こえたのです。「サムエルよ、サムエルよ」という声がしました。サムエルは飛び起きて、大祭司エリの所にやってきまして、「わたしを呼びましたか。私はここにいます」と言いました。「いや私は呼んでいないよ」と言われました。「あなたはまだ子供でしょう。寝ぼけているのか。何か変な声でも聞こえるのか。ま、とにかく戻って寝なさい」。そこで、サムエルは、自分の寝床に戻って再び寝たわけです。
そしたら再び声が聞こえてきて、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ぶわけです。そこで飛び起きて、エリの所に行って「先生、私を呼ばれましたか。私はここに居ります」と言いました。「いや、私は呼んでいない」とエリは言うわけです。「頭はどうかしていないか。そんな声が聞こえるのか。こんな真夜中に・・・。誰もいないのだから、誰がお前を呼ぶのだ。私は呼ばなかったよ。何か頭の中がおかしなことになっていないか」と言うわけです。「ま、戻って寝なさい」。そこでサムエルは、再び床にもどって寝るわけです。三度目に神様が「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれました。彼は再び飛び起きてエリの所に行って、「私を呼びましたか」と言いました。どうしてサムエルはそういうことをしたのでしょうか。今まで、神様の声を直接聞いたという人に、彼は会ったことがなかったのです。