もう罪を犯してはいけない 28
「キリスト・イエスにあっていだているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ人への手紙2章5~8節)
私たちがイエス様を愛する理由はあまりにも多い。ところで、神様はどうして私たちをこれほどまでに愛されるのだろうか? 私たちの側に神様の愛を受けるべき何かがあるのだろうか? イエス様を呪い、十字架に釘付けにしたのは、私たちなのだ。私たちは、必要な時には十字架を持ち出して罪の赦しを願うが、私たち自身がイエス様をもてなしたことが何回あったことだろうか。私たちの罪のために死んで下さった主なのに、私たちは毎日罪を犯して、何度も主を十字架につけているのではないか。それほど不真実な私たちのために、この世に来てくださって、死にいたるまで自分を低くされたイエス様の愛はどれほど大きくて、驚くべきものだろう。
サムエルの経験 9 神様の声を聞いた人
大祭司も神様の声を聞いたことはありませんでした。他の祭司たちも、教師たちも、ラビたちも、神の声を聞いたという人はいませんでした。義の標準というのがよくわかっていなかったのです。神様の声、神様の声を聞いて理解する、そういった見本、模範を見たことがなかったのです。ですから彼は、エリの所に行くしかなかったのです。こういった事が私たちの教会でも今起こっていないでしょうか。神様に忠実な、誠実な教会員が何人かいます。心の清い人たち、きれいな心の人たち、心の底から、真心から真理を求めている人たち。そして彼らは聖書、証の書を学んでいると、声が聞こえてくるわけです。しかしそれが何なのかよくわからない。そして、義の教師というのが教会に、身のまわりにいないわけです。どうしたらいいのでしょう。ほかにすべがないので、偉い先生の所に行くわけですね。経験豊富な牧師たちの所に、あるいは教師たち、長老たちのところに。行くと、時には、この人は狂信的だと思われることがあります。ある時には、イエス様が間もなくおいでになるという事を教会で語ったならば、そんなことで教会を脅かしたり、騒がせてはいけないと言われます。
このサムエルの物語を、私たち自身の経験に当てはめることができるのです。ですから、コリント第一の手紙10章11節でパウロは、神の言葉は、「世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒」として与えられている、最後の時代のために書かれていると言ったのです。神のみ言葉というのは鏡のようなものであります。アブラハムの所を読みますと、そこに、自分自身を見ることができます。そして、現代の教会の状況もそこに写し出されているのがわかります。聖書からイスラエルの歴史を読んで行きますと、何が見えるでしょうか。自分自身と今の教会の姿が、そこに写し出されているのが見えます。