もう罪を犯してはいけない 35
死がイエス様をつかまえておくことができなかったのは、イエス様が命そのものだったからだ。その命は、罪の力が打ち勝つことのできない命だ。神様のみ子を信じる時に、この命は私たちのものとなる。それだから、イエス様の血潮で罪の癒しを受けたら、私たちは、その方の復活の力、その方の命で生き続けていかなければならない。
イエス様は、地上生活のあいだ、この命によって生きられた。サタンは、この命に勝つことができなかった。同じように、サタンと罪の力は、この命を持つクリスチャンに打ち勝つことはできない。
すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちに、とどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない(ヨハネ第1の手紙3章9節)
サムエルの経験 16
本当に声が聞こえるという意味でしょうか。そういった声が実際に聞こえるという意味ではありません。聖霊的な洞察、理解の事を言っているのです。神学者たちのいろいろ教えることとか、そういったものを通してではありません。個人的な経験ですね。私は按手礼を受けた牧師として長年働いてきました。にもかかわらず、神様の言葉を本当には理解できていなかったのです。確かに神学的に理解し、教えていました。神学校へ行って学んでまいりました。そこで学位も受けました。ですから、神様の言葉は分かっていると思っていたのです。しかし、実はそうではありませんでした。自分ではわかっていると思っていました。そして、実際に説教もしていました。もう、いろんないい説教を語りました。いろんな人たちからカン先生の説教は素晴らしいと言われました。あなたこそは教会の将来の指導者にふさわしいと言われました。にもかかわらず、私の説教で、悔い改める人がいなかったのです。私の説教を聞いて改心する人があらわれなかったのです。そこで、自分自身の心と戦いました。何が間違っているのだろう。もっと勉強すべきだろうか。もっと説教学を、深い技術を会得すべきだろうか。そしてわかったのが、私の魂のうちに聖霊が欠けていたという事でした。
もし、聖霊が私の心を支配しておられるのならば、その証拠が見られるに違いないのです。その証拠とはなんでしょうか。罪に勝利するという証拠であります。それはどういう意味でしょうか。神の戒め、命令に従うようになる事です。そのことがわかってきたのです。そして、私は悔い改めました。イエス・キリストのいさおしによって私の魂が洗われていきました。自分自身を神の祭壇にささげて献身しました。自分が本当に邪悪な罪人であるという事を、私は神様の前に認めたのです。そして神様の哀れみ、情けをこい願いました。「イエスさま、どうぞ私を憐れんで下さい」。それから私は本当の意味で聖書がわかるようになってきたのです。私にとって証の書が全く新しいものになってきました。神の言葉、イエス・キリストの啓示が見えてきたのです。それから私は、また語りはじめました。人々にまったく新しい語りかけをしたのです。そうしたら奇跡が起こりはじめました。人々が揺り動かされ、ゆさぶられて、イエス様の前に悔い改めるのが見えてきました。泣いて自分の罪を告白し、イエス様の許しを請い求める人が現れてきたのです。そこで自分は思いました。「これはなんだろう、どういう事だろう」。今まで見たこともない現象だ。なぜ人々は悔い改め始めたのだろうか。自分にその力はないはずだから、だれがそれをやっているのだろう。これは神様のみ業に違いない。聖霊の業に違いない。ですから自分の手柄にすることはできませんでした。そして、恐れの念が出てきたのです。