もう罪を犯してはいけない 30
(3) 十字架は私たちの価値を語る
「それゆえ、わたしは彼に大いなる者とともに 物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ書53章12節)
どんな人も、全く価値のないことのために命を捨てるようなことはしない。イエス様が私たちのために命を捨てて下さったということは、イエス様は私たちの価値を知っておられるからなのだ。罪人である私たち自身は価値ある者ではないが、神様が私たちを価値ある者として再創造して下さるのだ。私たちが永遠に生きるようになる時、その価値はもっとはっきりと表れてくるだろう。神様は私たちの価値と、潜在能力を知っておられる。私たちが永遠に生きるならば、どのように変えられていくのか。永遠という時が過ぎれば過ぎるほど、私たちの愛は深まり、感謝は大きくなっていくのだ。
サムエルの経験 11 聖書によってよみがえりを体験する
印刷された聖書の言葉、文字自体は死んだものです。聖書の、このページ一つひとつはただの紙ですね。白い紙に黒い文字が書かれているだけです。ほかの世俗の小説とか、歴史の本と何ら変わるものではありません。違いはないわけですね。同じ物質です。しかし、そういった見方をすると、人はそこから神様の言葉を聞き取る事ができなくなります。神様の言葉を読んでも、聞いても、ただ、もう眠りに陥ってしまうのです。その神様の言葉が子守唄のようにしか聞こえないわけです。私たちは、神様の言葉を本当の意味で理解しなくてはいけません。サムエルのように、神様の声を聞くようにならなくてはいけないのです。神様が皆さん一人ひとりの名前を呼んでおられるその声を。毎日毎日私たちは個人的に、神様が自分を呼ぶ声を聞くべきであります。そして、これらのただの紙から、私たちは生きたみ言葉を自分の心に取り入れなくてはいけないのです。そして、その言葉をかみ砕いて、み言葉を語らなくてはいけません。これが預言であると神様はおっしゃっています。預言というのは、単に未来のこと、将来のことを予告するだけではありません。そういった死んだ文字を、生きたものに解説する、解釈することが預言なのですね。死んだものを生きたものにする。それが預言であります。そのみ言葉によって、皆さんが、死んだ状態から、よみがえらせてもらうという経験にあずからなくてはいけないわけです。