福音の道しるべ 7 仲保者なしに立つ信仰
再臨運動の先駆者たちは、まだ主の再臨の備えができていなかった、というのである。新たな責務を明らかにするために、新しい光が啓示される必要があった。
天の聖所におけるキリストのとりなしがやむとき地上に住んでいる人々は、聖なる神の前で、仲保者なしに立たなければならない。彼らの着物は汚れがなく、彼らの品性は、血をそそがれて罪から清まっていなければならない。キリストの恵みと、彼ら自身の熱心な努力とによって、彼らは悪との戦いの勝利者とならなければならない。この働きは、黙示録14章の使命の中にさらに明瞭に示されている。この働きが成し遂げられると、キリストの弟子たちは、主の再臨を迎える準備ができるのである。
つまり、神の民の側で、主に会う備えができていないために、イエスはおいでになれないのである。キリストがおいでになる少し前に、神の恵みの期間は閉ざされる。その時、天に仲保者がおられなくても罪なくして生きられるほど徹底的に清まっている民、罪との戦いにおいて絶えず勝利できるほどの品性に到達した民が、現れねばならない。
もう罪を犯してはいけない 43
イエス様は、両手を広げて、人類の始祖アダムを抱こうとされる。神様によって創造されながら罪を犯し、その罪のために主の体に十字架の釘あとを残すようにしたそのアダムを、主は抱こうとされる。しかしアダムは、主の釘あとを見て、その胸に抱かれようとせず、謙遜に主の足元にひれ伏し、「ほふられた小羊こそは、栄光と賛美とを受けるにふさわしい!」と叫ぶのである。
その時イエス様は、憐れみをもってアダムを抱き起こし、長い間追放されていたエデンの園を、もう一度眺めるように言われるだろう。イエス様は、人類の失敗と堕落を贖われた。アダムは、自分が追い出された時よりももっと美しくなったエデンの園を見ることだろう。そして彼は、感激しながらあたりを見回し、神様の園に立っている、大勢の救われた彼の子孫の群れを見ることだろう。