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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 72

2013年08月03日 | 日記

   

    72

彼〔キリスト〕の服従から引き出せる、完全な服従という無尽蔵の資金がある。天において、彼の功績、彼の自己否定〔克己〕と自己犠牲は、民の祈りと共に立ちのぼる香として重宝される。罪人の真摯で謙遜な祈りが神の御座にのぼっていくとき、キリストはこれらの祈りに、ご自分の完全な服従の生涯という功績を混ぜてくださる。私たちの祈りは、この香によって芳しいものとされる。私たちのために執り成すことを御自らかってでられた御子なるキリストの言い分を、天父は常に聞いてくださるのである(神の息子、娘たち22ページ)。

 

 キリストの恵みと聖霊の力によって完全になるまでは、私たちの誰も神の御前に立つことはできない。キリストがまばゆい栄光のうちに再臨なさるとき、生きている聖徒たちと復活した聖徒たちは、「だれが立つことができようか?」と叫ぶ(大争闘下420参照)。聖徒たちの祈りがキリストの義、または恵みの香と混ぜ合わされていなかったら、彼らは天父のみもとにたどり着くことはできない。聖所の儀式においては、祭司が聖所に入り、彼のために執り成しの祈りをささげる前に、罪人は、無垢の子羊を外庭につれてきて、それをいけにえとしなければならなかった。つまり、真に回心し、罪を捨て去らなければ、どれほど真理を理解し、真理に同意していたとしても、どれほど忠実に安息日を守って教会に出席していようと、誰もキリストの義によって罪を覆ってもらい、とりなしの祈りをささげてもらうことはないであろう。外庭の経験を通ることなく、信仰によって聖所に入ってもいない人のために、キリストは、とりなしの祈りをささげることがおできにならない。その人は悔い改めておらず、罪を捨て去ってもいないので、キリストは彼のために、天父の御前で執り成すことがおできにならないのである。


死は勝利にのまれてしまった

冒頭の使徒パウロの言葉に戻ろう。彼は現代で言えば、東大卒の高級官僚、雄弁で行動力があり、将来を嘱望されたエリートであった。そして彼は、持ち前の正義感から、その頃ユダヤ人社会に起きてきた「この道」と呼ばれる異端的な思想をもつグループを、排斥、弾圧する急先鋒として活躍していた。その彼が、ある時不思議な出来事を通して、「この道」の教えを信じ、その教えを広めるものとなってしまったのである。それは迫害する者から、迫害される者への大転換であった。後にキリスト教と呼ばれるようになる「この道」の教えこそ、人間に真の平和と自由、愛を与えるものであると信じ、体験した彼は、かつて彼が「この道」の者に加えた弾圧の何倍もの苦難をを受けながらも、喜びに満ちてこの教えを語り続け、ついに捕らえられ、死罪を宣告されてしまう。

そのような中で、彼は人生の確信と、来世へのゆるぎない思いをもって冒頭の言葉を残したのである。