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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 97

2013年08月27日 | 日記

  

  97

われわれは、今、大いなる贖罪の日に生存している。型としての儀式においては、大祭司がイスラエルのために贖罪をなしている間、すべての者は、主の前に罪を悔い改め、心を低くすることによって、身〔原文では「魂」〕を悩まさなければならなかった。もしそうしなければ、彼らは、民の中から絶たれるのであった。それと同様に、自分たちの名がいのちの書にとどめられることを願うものはみな、今、残り少ない恩恵期間のうちに、罪を悲しみ、真に悔い改めて、神の前に身〔魂〕を悩まさなければならない。われわれは、心を深く忠実に探らなければならない。多くの自称キリスト者がいだいている軽薄な精神は、捨て去らねばならない。われわれを打ち負かそうとする悪癖に勝利しようとする者は、みな、はげしく戦わなければならない。準備は、一人一人がしなければならない。われわれは、団体として救われるのではない。一人の者の純潔と献身は、これらの資格を欠く他の人の埋め合わせにはならない。すべての国民が神の前で審判を受けるのであるが、しかし神は、あたかもこの地上にその人一人しかいないかのように、厳密に一人一人を審査されるのである。すべての者が調べられねばならない。そして、しみもしわもそのたぐいのものがいっさいあってはならないのである(2GC224ページ)。

 

   新生への道 : 悔い改め ③

けれども、人の心が神の聖霊の感化に服従するならば、良心は呼びさまされ、罪人は神のおきてがいかに深くまた聖いものであるかを悟り、これこそ天地を治めておいでになる神の政治の基礎であることを知るようになるのです。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハネ1:9)とあるその光に、心の奥底を照らされ、また暗闇にかくされていた事柄を照らし出されて、心も魂も、自分は罪ある者だという思いでいっぱいになります。そして、正しく、また人の心を探られる神の前に、罪と汚れのまま立つことを恐れます。こうして、神の愛、聖潔の美、純潔の喜びを認め、自分も聖められて神との交わりに立ち帰りたいと切望するようになるのです。

 ダビデが罪を犯した後にささげた祈りは、罪に対する悲しみをよくあらわしています。彼は真面目に、心の底から悔い改めたのです。自分の罪を弁護しようとするのでもなければ、恐ろしい刑罰から逃れようという気持ちから祈ったのでもありません。ダビデは自分の罪の恐ろしさと魂の汚れを認めて、自分の罪を憎んだのです。彼が祈ったのは、罪のゆるしばかりでなく、心が清められることでした。また聖潔の喜びを切望し、もう一度神とやわらぎ、神との交わりに入りたいと願ったのです。彼の心から次のような言葉があふれ出ました。

 「そのとががゆるされ、

 その罪がおおい消される者はさいわいである。

 主によって不義を負わされず

その霊に偽りのない人はさいわいである」

    (詩篇32:1、2)

 「神よ、あなたのいつくしみによって、

  わたしをあわれみ、

  あなたの豊かなあわれみによって、

  わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。・・・

  わたしは自分のとがを知っています。 

  わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

  ヒソプをもって、わたしを清めてください。

  わたしは清くなるでしょう。

わたしを洗ってください、

わたしは雪よりも白くなるでしょう。・・・

神よ、わたしのために清い心をつくり、

わたしのうちに新しい 正しい霊を与えてください。

わたしをみ前から捨てないでください。

あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

あなたの救いの喜びをわたしに返し、

自由の霊をもって、わたしをささえてください。・・・

神よ、わが救いの神よ、

血を流した罪からわたしを助け出してください。

わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。

   (詩篇51:3~16)

 このような悔い改めは、とうてい自分の力でできるものではありません。これは天にお上りになって、人間に聖霊の賜物を与えてくださるキリストによるほかないのです。