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至聖所は、裁きを表している。エデンに復帰させられる前に、人類は審査されねばならない。天の住民は、罪と反逆にうんざりしている。罪のために、全天使の三分の一が失われ、以来、六千年ものつらい闘いが続いたのであった。これらの純潔な住民らが、裁きの座についている。私たちは、綿密な調査を免れて、天国に行くことができるだろうか。絶対に無理である。それは決して許されない。私たちの生涯の記録が、詳細にわたり検討されるであろう。私たちは、罪のない環境に生きるにふさわしい者か、救っても安全かどうかを調べられるのである。
もしそうでなければ、イエスはなぜ、再臨を遅らせておられるのだろう?もしも、十字架による罪の赦しだけで救いが得られるとしたら、神はなぜ、罪の存続を許しておられるのだろう?罪人が、罪の生活から離れるほどに悔い改めているか否かを、神は調査しなければならない。決意だけでは不十分である。信仰によって、罪人は罪への勝利を経験しなければならない。なぜなら、与えられたすべての光に全く服従することによって、信仰は立証されるからである。
新生の道:神の愛 ②
神のみ言葉は、神のご性質をあらわしています。神は自ら、ご自身の限りない愛とあわれみについてお語りになりました。モーセが「どうぞ、あなたの栄光をお示し下さい」と言った時に、神はそれに答えて、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ」(出エジプト33:18,19)ると言われました。これが神の栄光の表現です。神はモーセの前を通られる時、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」(出エジプト記34:6、7)、「怒ることおそく、いつくしみゆたかで」(ヨナ書4:2)「いつくしみを喜ばれる」(ミカ書7:18)ものであると言われました。
神は天にも地にも、数えきれないほどの愛のしるしをまき散らして、私たちの心をご自分に結びつけようとしておられます。自然界のいろいろなもの、また人の心が感じることのできる深い優しい地上の絆によって、神は私たちに神ご自身を示そうとなさいました。しかし、これらは神の愛のただ一部を示しているにすぎません。