73 近所のスイレン
今日、多くのクリスチャンが教会へ行き、イエスの御名によって祈るが、実際にキリストのとりなしの恩恵を受けるのは、一握りの人たちだけかもしれない。多くの人たちが、自分たちの罪は天の聖所に移されていると思い込んでいるだけかもしれない。実は、彼らの罪は、まだ天の聖所に移されていないこともあり得るのである。最後の時代には、多くのクリスチャンが、「主よ、私をご存じないのですか?」と叫ぶ。すると主は、「私はあなたを知らない」とお答えになるのである(マタイ7章、25章参照)。「わたしにむかって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)。
恵みはすべての人に提供されているが、聖所の儀式に示されている救いの経験を通った者たちだけが、とりなしの祈りの香によって罪を覆ってもらえるのである。とりなしの祈りの香によって罪を覆ってもらえるのは、恵みの期間中だけである。恵みと同様、裁きも神の贖いの計画の一部である。「いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互いに口づけし」た(詩篇85:10)。聖徒たちが品性完成を目指して聖所の道を歩むときに、キリストの祈りという香が彼らを覆ってくれる。実体としての贖罪の日が終わるとき、彼らは顔と顔とを合わせて神の栄光を見るであろう。
原稿:職場新聞への投稿より・来たるべき日に備えて ⑧ 死は勝利にのまれてしまった
パウロはまた、別の時にこうも書いた。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」。それまで、人類すべての人が死の前に敗北してきた。どんなに権力ある者も、体力ある者も、死の前にはひとたまりもなく敗れ去ってきたのである。しかし彼は違った。彼は死の勝利者として敢然と立ったのである。彼は死に飲み込まれたのでなく、死を飲み込んでしまった。彼は、ローマ帝国より死を宣告されることにより、死よりも強い信念があること、死によってしても犯しがたい真理があることを証明したのである。信じる彼にとって、死はなんら意に介さない小事に過ぎなくなっていた。
伝説によれば使徒パウロは、刑場で、やがて自分の血を受けるであろう大地でもなく、また刑吏の刃でもなく、輝く夏の青空のはるかかなたに、自分を待ち受ける永遠の生命の幻を見つつ逍遥として死に臨んだのだという。