デビット・カン著 福音の道しるべ 94
贖罪の日にも、普段の日ごとの犠牲がささげられた。この雄羊は、宿営中に告白されていない罪が残っていた場合のためにささげられた。罪の除去のためにささげられた主の雄ヤギを大祭司が選ぶまでは、まだ赦しの希望があった。同様に、イエスは今日、神の御座の前で香炉を手に持ち、私たちの罪のために最後の嘆願〔申し立て〕をしておられる。とりなしの最後の祈りが、天に上げられている。日ごとの犠牲の効果がなくなる時がいつなのか、私たちには分からない。それ以後にささげられる犠牲は、単なる形式と化してしまうのである。現在、教会が実体としての贖罪の日にいることは、歴史が証明している。個人的な宗教経験の段階は人によって異なるので、ある人たちは、まだ外庭にいるかもしれない。あるいは聖所〔第一の部屋〕にいる人たちもいれば、至聖所の経験をしている人たちもいるかもしれない。またあるいは、長年教会へ行き、安息日も守っていながら、外庭にすら足を踏み入れたことのない人たちがいるかもしれない。真剣に、自分自身の心を探ろうではないか。各自が、「私の魂の宮では、贖いの働きが進んでいるだろうか?私は本当に罪に勝利しているだろうか?聖霊の力により、日ごとに罪から離れているだろうか?」と尋ねるべきである。
神の言葉が教えている救いは、常に条件付きである。「御子を信じる者」は、誰でも永遠の命を受けるであろう。信仰は、永遠の命に先立つ必要条件である。赦しも条件付きである。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」と聖書は述べている(Ⅰヨハネ1:9)。
新生への道:キリストの必要 ⑤
私たちは、神の憐みを無視してもいいのでしょうか。いったい神は、これ以上何かなさることがあるでしょうか。驚くばかりの愛をもって私たちを愛された、神との正しい関係に立ち帰りましょう。そして、与えられた方法を最もよく用いて、神のみかたちに変えられて、もう一度天使と交わることで、父なる神とみ子とに一致し、その交わりにはいることができるようにしたいものです。