90
多くの近代訳においては、「私たちを贖い」の部分が、「彼ら〔人々〕を贖い」に変えられている。原文のギリシア語は、「私たちを贖い」となっている。ラテン語ウルガタ訳、ウィクリフ訳、ティンダル訳、またその他いくつかの翻訳においては、「私たちを贖い」と訳されている。ここでの、「私たち」と「彼ら」の違いは重大である。原文では、二十四人の長老と四つの生き物が、贖われた聖徒らの群れに含まれている。天使は贖いを必要としない。彼らは、一度も神の律法を犯したことがないからである。だから天使たちであれば、「彼らを贖い」と歌う。けれども、贖いを経験した二十四人の長老と四つの生き物は、「私たちを贖い」と歌うのである。
これら四つの生き物は、至聖所の四人のケルビムでもある。この概念を支持する次のような言葉がある。
サタンは神の御前で、彼らに対する告発を行い、彼らは自らの罪によって神の保護を失ったと宣言し、彼らを違反者として滅ぼす権利が自分にはあると主張する。彼らはサタン自身のように、神の寵愛から当然締め出されるべきであると、彼は言明する。彼は言う。「この者たちは、天において、私と私にくみした天使たちの場を占めることになっている人々ではありませんか?」と(教会への証五巻473ページ)。
堕落前のルシファーはケルブのひとりであり、他のすべてのケルブよりも神の御側近くにいたことを覚えられたい。
新生への道 : 2 キリストの必要 ①
人は初め、優れた能力と調和のとれた精神を与えられていました。彼はまた、人として完全で神と調和し、思想も純潔で清い目的を持っていました。けれども、神に背いたためその能力は悪に向けられ、愛は利己心に変わってしまいました。罪のため人の性質はすっかり弱められて、自分の力では悪の勢力と戦うことができなくなりました。こうして悪魔のとりことなってしまったのですから、もし、神が特別に救ってくださらなかったならば、いつまでもそのままの状態でいたことでしょう。悪魔は、人を創造された神のご計画を妨害し、この世を悲しみと破壊で満たそうと思いました。そして、こうした災いはみな神が人を創造された結果であると言おうとしたのです。
人は、罪を犯す前には「知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(コロサイ2:3)キリストとの交わりを楽しむことができました。けれども罪を犯した後は、もはや清いことを楽しめなくなり、神のみ前から隠れようとしました。今日でも、新生を経験しない人の状態は同じで、彼らは神と一致していないため、神と交わることを喜ばないのです。罪人は神の前では楽しむことができません。彼らは清い人々との交わりを避けようとします。たとえ天国に入ることが許されても、少しも喜びとならないでしょう。天国では無我の愛の精神が満ち満ちていて、限りない神の愛をすべての心が反映しているのですが、そうした精神も、罪人の心にはなんの感動も与えないことでしょう。そして、その思想も興味も動機も、天国に住む罪のない人々の心とは全く異なっていることでしょう。彼らは天国の美しい音楽と調和しないものとなるのです。天国はあたかも苦しいところのように思われ、光であり喜びの中心である神のみ顔を避けようとすることでしょう。悪人は天国に入れないというのは、なにも神が独断的にお決めになったのではありません。それは、彼らが自分でそうした交わりに不適当な者となってしまったからなのです。神の栄光は、罪人にとっては焼きつくす火です。罪人は、自分たちをあがなうために死なれたキリストのみ顔を避けて、滅ぼされたいと望むようになるのです。