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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音のみちしるべ 100

2013年08月30日 | 日記

 

    100

 厳粛に心を探っている間、ひたすら聖所に目を向けて、大祭司が至聖所から出てくるのを待った、昔のイスラエル人のように、私たちは自らの心を探りつつ、天の聖所に信仰の目を向けているべきである。贖罪の日の経験にあずかったイスラエル人だけが、仮庵の祭りを喜んで祝うことができた。同様に、罪の赦しを受け、キリストのご品性を完全に反映する者たちだけが、印されて、ガラスの海の上に立ち、実体としての仮庵の祭りを祝うであろう。聖所のすべての象徴と祭りは、聖書に啓示されている通りに成就するであろう。贖罪の日の裁きは、私たちの目の前で成就されつつある。信仰によって、私たちは恵みの座の前に立つのである。十四万四千は、神の御前にとがなき状態で立つ。それは一体、どういうことなのだろう?彼らの過去の罪はすべて赦され、これらの罪を二度とふたたび繰り返すことのない、聖なる品性を兼ね備えたのである。花婿の前に出る準備をととのえた花嫁のように。

信徒らのすべての罪を除く上で、大祭司は、彼らの罪のために最後のとりなしの祈りをささげた。イスラエルの子らの一つひとつの件が処理された。が、もう一つ重大な働きが残っていた。アザゼルのヤギを、荒野に連れて行かなくてはならなかった。この通称スケープゴートは、サタンを表している。サタンは、自らの罪と、彼が人に犯させたすべての罪の審判を受けるであろう。アザセルのヤギは、贖罪の働きの一部ではなかった。贖罪が完成した後に、すべての罪の責任〔重荷〕がヤギに負わされた。ほとんどの罪の責任は、二人以上の者に科せられるべきである。サタンと、彼にそそのかされて罪を犯した個々人が、それぞれ責任の相当分を負うのである。

 

   新生への道 : 悔い改め ⑥

罪人はこの愛を拒み、キリストに引かれることを拒むこともできますが、逆らいさえしなければ自然にイエスに引き寄せられるのです。そして救いの計画を知るようになると、自分の罪が愛する神のみ子をこのように苦しめたことを悔いて、十字架のもとにひざまずくのです。

 自然界にも働いているこの同じ神のみ心は、人の心に呼びかけ、人が持ち合わせていない何ものかに対する表現しがたい渇望を起こさせるのです。この世のものではどうしても彼らの渇望を満たすことはできません。聖霊は、心に真の平安を与えることができる唯一のものであるキリストの恵みと、清めの喜びを求めるように訴えています。私たちの救い主は絶えず、さまざまの力を用いて、満足のない罪の快楽を離れ、キリストによって与えられる限りない祝福を求めるよう、私たちの心に働いておられます。この世の渇ききった泉のほとりで飲もうとしても、飲むことのできない人々に、み言葉は、「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」(黙示録22:17)と呼びかけています。

 あなた方のうちで、この世の与えるものよりもさらに良いものを心の中で求めておられる方は、その心の願いが、魂へ呼びかける神のみ声であることにお気づきになるでしょう。どうかその時は、神が悔い改めを与えてくださるように、そして限りない愛にあふれ、全く純潔そのものの姿のキリストを、お示しくださるように祈っていただきたいのです。救い主は、神のおきての原則、すなわち神と人とを愛するということを、その生涯において完全に実行されました。また、慈しみと無我の愛が救い主の命でした。ですから私たちが救い主をながめ、救い主の光に照らされるとき、はじめて自分の心の罪深さが見えてくるのです。

 私たちもニコデモのように、自分の生活は正しくて、道徳的にも間違ったことはしていないとうぬぼれて、ふつうの罪人のように神の前にへりくだる必要はないと考えているかもしれませんが、ひとたびキリストの光が心の中にさしこむとき、自分たちがどれほど汚れているかがわかるのです。また、何をするにも自分の利益ばかり考え、神に逆らい、日常のあらゆる行動が汚れていたことを悟るのです。そして、私たちの義は汚れた衣のようであって、キリストの血だけが罪の汚れを清め、彼の品性にかたどって、私たちの心が新しくされることを知るのです。