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聖化の道を歩んでいながら、聖所を何十回も、何百回も出たり入ったりすることもあり得るであろう。しかしながら、聖所を出入りする頻度が増えるにつれて、私たちの良心はそれだけ鈍っていく。神の恵みを受けるとき、私たちはそれを感謝し、それを日照りのときの水のように使うべきである。再びキリストを十字架につけることがないように、最善を尽くすべきである。私たちはまだ、罪との血のにじむような戦いをしたことがない。後の雨がまだ降っていないのは、そのためである。私たちがすべての罪に勝利する手助けをし、品性を完成させるために、後の雨が降るわけではない。すべての罪に勝利し、キリストの力によって完全な品性を築いた人たちの上に、後の雨は降るのである。あなたは今、神の御前に立つ備えをしているだろうか?
第一の部屋である聖所を通過して、第二の部屋である至聖所へと入っていく前に、ある一つの概念を理解しなくてはならない。義と認められ、聖化を経験している人は、たった一つの罪を犯しただけで、その義認を台無しにするのだろうか?その通りである。もしその人が悔い改めず、自分の罪を抱いたままにしていたら、彼は神の救いから離れてしまうのである。神は、罪と一緒にいることがおできにならない。神が罪をお赦しになれるのは、カルバリーの十字架がその価を支払ったからである。罪人が悔い改めない限り、神は罪を忘れることがおできにならない。罪を悔い改め、捨て去らなければならない。さもないと、罪人は自ら保持している罪と一緒に滅びることになる。罪は、いずれかの方法で永久に処理されねばならないのである。罪人は、天国で生きることができない。それゆえに、私たちを罪から清めるために、調査審判が行われるのである。ダビデが罪を犯したとき、彼の心は神と結ばれていなかった。
原稿:世界を救う愛の預言 内村鑑三と再臨信仰
日本の代表的なキリスト教徒として知られる内村鑑三は、その著書の中で、来世を信じる信仰についてこのように言っています。「人は国を愛するだけそれだけ、その国人に憎まれるように見えます。世につらいこととて、人の善を思うてその人に憎まれることほどつらいことはありません。しかしながら、これ人生の常でありまして、少しくまじめに世を渡らんと欲せし者は、たいていはこのつらき実験を経過いたします。・・・・ 私は世に誤解された時に最も明白に来世の存在を認めました。私は骨肉友人の誤解を最もつらく身に感じた者であります。私はその誤解を取り去らんために、私の知るすべての方法を尽くしました。しかしその全く無効なるを知りまして、一時は非常に失望いたしました。しかしながら、聖書を読み、ことに『黙示録』を読みまして、かかる誤解の生涯がキリスト教徒の生涯であることを悟り、それと同時に、神が私どもに善き国を供えたまいしを知りまして、私の涙は初めてぬぐわれました。私は目に涙をたたえずして、いまだかつて黙示録の第21章を読んだことはありません。
「神、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとり、また死あらず、悲しみ、痛み、あることなし。そは前のことすでに過ぎ去ればなり」(黙示録21章4節・文語訳聖書)
ああ、これあれば足りるのであります。これあれば人になんと言われてもよろしゅうございます。・・・・これあれば、私に痛み悲しみはありません。来世の希望が私に供せられたときに、私は初めて息気(いき)をついたのであります。このとき初めて私は人らしき人となったのであります。そのときから、宇宙も人世も私には楽しきものとなりました」(『宗教座談』)。
内村鑑三が、後年キリスト再臨信仰に強く傾いていったことは、キリスト教史家が認めているところです。彼は日本と日本人を愛し、その真の繁栄のために努力しましたが、誤解され、中傷され、ついに、その愛が完成するところとしての神の国の到来を待ち望むようになったのです。