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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 86

2013年08月16日 | 日記

 

  86

日ごとに罪を告白した罪人らは、赦しを受けただろうか?勿論である。ではなぜ、贖罪の日に彼らの生涯は再調査され、罪から清められる必要があったのか?この時点まで、彼らの赦しは条件付きであった。それは、神が約束を守らないからではない。移り気なのは、人の心のほうである。一人ひとりの罪人が、心底赦されたいと願っているかどうかが、調査されねばならない。全宇宙の前で、神は公正な裁きを行わなければならない。罪と反逆を永久に消し去るために、神を信じると公言するすべての人の品性が徹底的に調査されねばならないのである。罪人が真に悔い改めたか否かは、どのように証明されるのだろう?罪に勝利することによってである。

罪の赦しと罪の除去は、別個の出来事である。第6章では、これら二つの区別がはっきりとなされている。贖罪の日の調査なくして、罪の除去は起こり得ない。罪の除去がなければ、神は大争闘に終止符を打つことがおできにならない。

聖所の儀式が記録されたのは、単に聖所の構造が複雑に入り組んでいたことを明らかにするためではなかった。様々な儀式を通して、救いのために神が設けられた青写真〔詳細な計画〕を、私たちが経験するように、神は望まれたのであった。では、至聖所の経験へと進む前に、至聖所の構造にふれてみたいと思う。

    新生への道 : 神の愛 ④

イエスの生涯のあらゆる行為には愛と情けとあわれみとが見られ、その心は優しい同情となって人々の上にさしのべられたのです。イエスが人となられたのも、人間の必要に応じることができるためでした。どんなに貧しい者も、どんなにみじめなも、恐れずにイエスに近づくことができました。また、幼い子供でさえ彼に引きつけられ、そのひざによじのぼって愛にあふれた物静かなみ顔に見入るのでした。

 イエスは真実をなんの遠慮もなく語られましたが、そういう時にはいつも愛を持ってお語りになりました。また人と交際するにあたっては、いつも上手に、深い思いやりと注意を払い、荒々しい言葉を用いたり、なんの理由もないのに言葉を鋭くしたり、感じやすい心を何の必要もないのに傷つけたり、人の弱さを責めたりなさいませんでした。常に愛をもって真実を語られました。また偽善、不信、不義をお責めになりましたが、そうした鋭い譴責の言葉を語られた時にも、そのみ声は涙にふるえていました。道であり真理であり命である自分を拒んだ、愛する町エルサレムのことを考えて、主イエスは泣かれました。人々はイエスを拒んだのですが、イエスは優しく彼らをあわれまれたのです。彼は一生の間、自己を全く捨てて、人のために尽くされました。イエスの目にはどの魂もみな尊く映ったのです。彼は神の子の権威を備えておられましたが、へりくだって、神の家族の一人ひとりをやさしく思いやり、どの人を見ても、この罪に落ちた魂を救うことこそ自分の使命であると思われたのです。