ひまわりさんより(3月21日)
日曜日に、グレンジャー先生の墓前礼拝に東京へ出かけたことを紹介しました。
その帰りは、息子が市原まで車を運転することになりました。
息子は免許は持っているのですが、ふだん軽自動車ばかりで、大きい車はほとんど運転したことがありません。
その上、首都高速は初めてなので、運転する後ろ姿を見ているだけで、彼の緊張ぶりが伝わってきました。
7人の命を預かっているので、事故が起きないように私は必死で祈りました。
(夫も心配で首都高速の間中祈っていたそうです)。
おかげさまで何とか無事に家まで帰りつきました。
そして今日21日は、息子が久しぶりに、以前やっていた引越しのアルバイトに行くことになりました。
学校が春休みになり、1年ぶりぐらいでアルバイトに行くのですが、ハードな仕事なので、前の日から、かなり緊張していました。
昨夜は、隣の部屋で寝返りをしている物音の中に、緊張している様子が伝わってきました。
そのことを通して、私は、頼りにならない人間の親でも、子供のことをこんなに案じているのだったら、
天の神様は、どれほど私たちのことを心にかけていてくださるのだろうと思いました。
そして、私たちを本当に心配してくださる神様の前で、神様を悲しませるようなことはしたくないという思いが強くしました。
カン先生のメッセージの中で(少し先の方ですが)私たちは、「罪を犯すことができなくなる」、
と教えられています(1ヨハネ3:9参照)。
私たちをこよなく愛して下さる神様を悲しませるようなことはしたくなくなり、罪を犯すことができなくなるのです。
そのことが少しわかったように思いました。
試みの中に立つ信仰
『大争闘』下巻の391ページから392ページをお読みします。
「サタンが神の民をその罪のゆえに責められるときに、主はサタンが彼らを極限まで試みることをゆるされる。
神に対する彼らの信仰と堅実さとが激しく試みられる」。
終わりの時に、神様がご自分の教会をサタンの手に渡して、極限まで試みられるのをおゆるしになるのです。
その極限まで試みられる人たちが、14万4000であります。
そしてこの大いなる悩みから抜け出してくる人たちが14万4000であります。
次に『大争闘』下巻396ページです。「かつてなかったほどの悩みの時が、間もなく我々の前に展開する。
それだから我々は一つの経験、今我々が持っておらず、また多くの者が怠けて持とうとしない経験が必要なのである。
現実の困難というものは予想したほどではないということがしばしばある。
しかし、我々の前にある危機の場合はそうではない。
どんなに生々しく描写しても、この試練の激しさにはとうてい及ばない。
この試練の時に、人間はみな、自分で神の前に立たなければならない」
神様の前に立つ用意が、皆様できていますか。
ヨブの経験というのは、はるか昔に起こったものではないのですね。
私たちの経験になってきますよ。