訪問日 令和6年9月24日
山本五十六記念館
長岡が生んだ偉人「山本五十六」の生涯の足跡をたどり、その「人となり」を紹介する記念館
昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃を立案した連合艦隊司令長官、山本五十六の私物を展示している

記念館前の「唐楓」

入館料:500円 駐車場:無料
館内の撮影は禁止ということで読解力の無い私には辛い

昭和18年(1943年)ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜された機体の一部
パプアニューギニア政府の厚意により平成元年(1989年)左翼の里帰りが実現した

記念館の受付の女性から「山本五十六の生家」が近くにあることを知らさせる
駐車場がないので車をここに置いて行ってくださいと言われた(100m程歩く)
山本五十六生誕の地
明治17年(1884年)4月旧長岡藩士高野貞吉の六男として玉蔵院町(現 長岡市坂之上町)で生まれる
父56歳の時で「五十六」と名付けられたという

生家は焼失し復元したもの
現在は「山本記念公園」内に保存されている

旧制新潟県立長岡中学校時代に10歳年長の甥である高野力が病死
その際の両親の「五十六が力に代わって立派な武士(軍人)になってくれれば」という言葉で軍人を目指し、「武士の家の子は武士になる」と語っていた

生家内の見学は自由で無料

明治34年(1901年)長岡中学を卒業し、海軍兵学校に200名中2番で入学
世界三大兵学校(他は英国と米国)の一つで、現在でいえば東大レベルの学力が必要だった
明治38年(1905年)巡洋艦日進に乗組、日本海海戦において左手指と右下腿部に重傷を負う



大正5年(1916年)長岡藩家老山本帯刀の家を継ぎ以後「山本」姓となる

大正7年(1918年)元会津藩士三橋康守の三女「禮子」と結婚
翌年4月からアメリカ駐在武官として渡米、ハーバード大学に入学し英語習得に励む


山本五十六筆「常在戦場」
山本五十六の「座右の銘」で
「いつでも戦場にいるつもりで緊張感を持て」という武士の心構えである

昭和5年(1930)ロンドン軍縮会議の随員
昭和9年(1934)ロンドン軍縮会議予備交渉の海軍代表
海軍軍縮条約の締結が日本の命運を決める重大事と認識し粘り強く交渉を続ける
昭和11年(1936)海軍次官に就任
海軍大臣米内光政、軍務局長井上成美らとともに日独伊三国軍事同盟に断固反対の姿勢を貫いた

昭和14年(1939)連合艦隊司令長官に就任
昭和16年(1941)ハワイ真珠湾攻撃を敢行し未曾有の大戦の指揮をとった
昭和18年(1943)ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜されて戦死
死後、元帥府に列せられた

2階に上がる(3人以上は上がらないようにとの注意書き)

2畳の勉強部屋
山本五十六の身長は160cmだったというが、天井はそれよりも低い感じがした

寝室

山本五十六胸像
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」
「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」

五十六が継いだ山本家は徳川家旗本
大政奉還後の北越戦争で官軍と交戦し敗北、新政府から戦争責任の追及で藩主牧野家は筆頭家老・河井継之助と上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として家名断絶となった
山本五十六も勝機の少ない戦いに反対しながら、戦争を指揮主導した悲劇的な指揮官として幕末の長岡藩家老・河井継之助同様の立場になっている


記念館に駐車場に戻る

撮影 令和6年9月24日
山本五十六記念館
長岡が生んだ偉人「山本五十六」の生涯の足跡をたどり、その「人となり」を紹介する記念館
昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃を立案した連合艦隊司令長官、山本五十六の私物を展示している

記念館前の「唐楓」

入館料:500円 駐車場:無料
館内の撮影は禁止ということで読解力の無い私には辛い

昭和18年(1943年)ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜された機体の一部
パプアニューギニア政府の厚意により平成元年(1989年)左翼の里帰りが実現した

記念館の受付の女性から「山本五十六の生家」が近くにあることを知らさせる
駐車場がないので車をここに置いて行ってくださいと言われた(100m程歩く)
山本五十六生誕の地
明治17年(1884年)4月旧長岡藩士高野貞吉の六男として玉蔵院町(現 長岡市坂之上町)で生まれる
父56歳の時で「五十六」と名付けられたという

生家は焼失し復元したもの
現在は「山本記念公園」内に保存されている

旧制新潟県立長岡中学校時代に10歳年長の甥である高野力が病死
その際の両親の「五十六が力に代わって立派な武士(軍人)になってくれれば」という言葉で軍人を目指し、「武士の家の子は武士になる」と語っていた

生家内の見学は自由で無料

明治34年(1901年)長岡中学を卒業し、海軍兵学校に200名中2番で入学
世界三大兵学校(他は英国と米国)の一つで、現在でいえば東大レベルの学力が必要だった
明治38年(1905年)巡洋艦日進に乗組、日本海海戦において左手指と右下腿部に重傷を負う



大正5年(1916年)長岡藩家老山本帯刀の家を継ぎ以後「山本」姓となる

大正7年(1918年)元会津藩士三橋康守の三女「禮子」と結婚
翌年4月からアメリカ駐在武官として渡米、ハーバード大学に入学し英語習得に励む


山本五十六筆「常在戦場」
山本五十六の「座右の銘」で
「いつでも戦場にいるつもりで緊張感を持て」という武士の心構えである

昭和5年(1930)ロンドン軍縮会議の随員
昭和9年(1934)ロンドン軍縮会議予備交渉の海軍代表
海軍軍縮条約の締結が日本の命運を決める重大事と認識し粘り強く交渉を続ける
昭和11年(1936)海軍次官に就任
海軍大臣米内光政、軍務局長井上成美らとともに日独伊三国軍事同盟に断固反対の姿勢を貫いた

昭和14年(1939)連合艦隊司令長官に就任
昭和16年(1941)ハワイ真珠湾攻撃を敢行し未曾有の大戦の指揮をとった
昭和18年(1943)ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜されて戦死
死後、元帥府に列せられた

2階に上がる(3人以上は上がらないようにとの注意書き)

2畳の勉強部屋
山本五十六の身長は160cmだったというが、天井はそれよりも低い感じがした

寝室

山本五十六胸像
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」
「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」

五十六が継いだ山本家は徳川家旗本
大政奉還後の北越戦争で官軍と交戦し敗北、新政府から戦争責任の追及で藩主牧野家は筆頭家老・河井継之助と上席家老・山本帯刀を反乱の首謀者として家名断絶となった
山本五十六も勝機の少ない戦いに反対しながら、戦争を指揮主導した悲劇的な指揮官として幕末の長岡藩家老・河井継之助同様の立場になっている


記念館に駐車場に戻る

撮影 令和6年9月24日