今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

2023年放浪の旅 思い出の情景 その5

2024年04月30日 | 旅日記
2023年放浪の旅 思い出の情景 その5

21 平戸城・亀岡神社(長崎県平戸市岩の上町)訪問日 令和5年5月24日
平戸城(別名:亀岡城)
初めて訪れる場所は駐車場探しに苦労する
困っていると、地元の親切な女性が城に一番近い場所を教えてくれた



天守閣
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃、徳川家康からの嫌疑を晴らすため、城の一部を破却したと伝わる
豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためともいわれている
元禄15年(1702年)松浦鎮信(隠居により改名)は幕府に平戸城の再築城を願い出て、翌元禄16年(1703年)に許可された
これは徳川家との姻戚関係と、東シナ海警備の必要性によるものといわれている



城からの景色が美しい
遠くに見える朱色の「平戸大橋」を渡り平戸城へやってきた
橋からの眺めは高所恐怖症ということも忘れるほどの絶景であった



亀岡神社
拝殿・幣殿・本殿(国登録有形文化財)



境内北端中央の高い石垣に本殿が建つ



社殿と平戸城が繋がっている



中川愛子像
肥前国平戸藩主松浦清の11女として平戸に生まれる
姉の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、3男2女(忠愛・忠光・公董・栄子・慶子)を産んだ
娘・慶子が孝明天皇に仕え、やがて愛子の孫にあたる皇子・祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任された
のちに、曾孫・明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わったことになる



22 九十九島<西海国立公園>(長崎県佐世保市)訪問日 令和5年5月24日
車での九州への旅は今回が最後になると決めていた
九十九島の美しい景色は雑誌等で知ってはいたが、自分の目で一度確かめてみたかった



複雑に入り組んだリアス海岸と島々が織りなす美しい自然景観が広がっている
九十九(くじゅうく)とは数がたくさんあるという意味で使われる例え言葉で、実際の島の数は208ある
平戸藩主松浦静山が、出羽国(秋田県)の「象潟九十九島」に倣い名づけたとされる



佐世保市内には「九十九島八景」と呼ばれる8ヶ所の展望スポットがある
ここは、その一つで佐世保市下船越町にある展望公園「展海峰(てんかいほう)」という場所



写真を撮っていると、ある男性から「平戸城の駐車場でも一緒でしたよね」と声を掛けられた
私の車が札幌ナンバーだったので声を掛けてくれたようだ
現在は大阪に住み悠々自適の生活を送っているが、少し前まで北海道で競走馬の牧場を経営していたという
馬主でもあり武豊騎手や福永祐一騎手などにも騎乗してもらったという



競馬好きな私としては知り合いになりたかったが、あっさりと去って行った



現地では気付かなかったが写真をよく見ると佐世保湾に軍艦がいる
調べて見ると前日の23日まで、世界最大級のアメリカ海軍原子力空母「 ニミッツ」が停泊していたという
広島で開かれたG7サミットに合わせた寄港ともみられている



23 世界遺産 端島<通称:軍艦島>(長崎県長崎市)
平成27年(2015年)国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された



長崎港から「軍艦島上陸ツアー」というのもあるが年金生活者には厳しい価格帯だった
軍艦島を一番近くから見えるという野母崎総合運動公園(軍艦島展望所)に車を走らせた

夫婦岩
長崎市内で渋滞はあったが海岸線を走る国道499号線は快適で軍艦島の姿を見ながらのドライブは楽しかった
途中、4億8000万年前にできた夫婦岩がある



近くに2階建ての展望室があり撮影スポットの一つになっている



遊び心で撮ってみた



野母崎総合運動公園の小高い場所に「軍艦島展望所」がある



大正5年(1916年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建設された
この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道
大正10年(1921年)に長崎日日新聞も、当時建造中だった戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる
「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる






人口が最盛期を迎えた昭和35年(1960年)には5,267人の人口があった
人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退



1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、昭和45年(1970年)に端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表
その後数百万トンの石炭を残したまま昭和49年(1974年)1月15日に閉山した
4月20日の連絡船の「最終便」で退去した担当者らの離島をもって、端島は無人島となった



24 長崎山 清水寺(長崎県長崎市鍛冶屋町8-43)訪問日 令和5年5月25日
長崎市内で寺巡りをするには駐車場探しから始まる
最初に選んだのは大きな駐車場がある清水寺(大正解であった)

中門(石門)
明和8年(1771年)四方田慈輔の寄進により石段の最上段に建てられた
長崎の寺院ではいくつかみられるが、全国的には珍しいアーチ型の石門
受付の女性の話しによると今は埋め立てられ建物が多くあるが、昔は寺の前まで海だったそうだ
塩害から護るために石門になったのではないかと説明してくれた



本堂(重要文化財)
寛永4年(1627年)に現本堂の前身となる木造懸造の舞台をもつ二重屋根の瓦葺本堂が完成
寛文3年(1663年)の大火で境内の一部が被災した
寛文8年(1668年)本堂再建の造営に福建省出身の帰化唐人、何高材が息子の兆普、兆有とともに着手した
何高材の亡き妻は日本人で、その供養のために再建に尽力したのではないかといわれている



真言宗寺院の本堂であるが、開放的な構えや細部にみられる中国風の意匠などに黄檗寺院との共通性がみられる
長崎県内に残る密教寺院の本堂としては最も古い



本尊:千手観音菩薩
開祖である慶順僧都が京都清水寺より奉持してきた
清水型といわれる千ある手の一つが頭上で合掌する姿で、頭上には小如像を掲げている
本堂内陣の中央厨子内に秘仏として祀られる
御開帳は60年に一度と決められているという……まさかと思うが



清水寺の受付の女性には親切にして頂いた
車を駐車場に置き、寺巡りをするようにと地図と簡単な道案内もしていただいた

25 聖寿山 崇福寺(長崎県長崎市鍛冶屋町)訪問日 令和5年5月25日
黄檗宗の寺院
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から「超然」を招聘して創建
中国様式の寺院としては日本最古のもの

三門(重要文化財)
嘉永2年(1849年)に再建された際、初めて「龍宮門」と呼ばれる様式で造られた



第一峰門(国宝)
第一峰門は、中国の寧波(ニンポー)で加工された材料を唐船で長崎に運び入れ、元禄8年(1695年)に完成した



軒下の組物は、「四手先三葉栱」と呼ばれる複雑巧緻な詰組は他には例がなく、華南地方にも稀という



建物のほとんどが国宝か重要文化財、堂内の仏像も撮影できて拝観料300円は驚く



大雄宝殿(国宝)
護法堂の前に位置するのが崇福寺の本堂「大雄宝殿」
正保3年(1646年)1月に唐商 何高材(がこうざい)の寄進によって創建された
長崎市に現存する最古の建物



本尊:釈迦如来坐像(長崎県指定文化財)
昭和10年頃の仏像修理の際、本尊の「釈迦如来坐像」の胎内から、銀製の五臓、布製の六腑等が発見された
金属の五臓があるのはこの釈迦如来が唯一のもの



退職の年に同僚4人と訪れた思い出の寺院の一つでもある

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2023年放浪の旅 思い出の情景 その4

2024年04月29日 | 車中泊
2023年放浪の旅 思い出の情景 その4

16 筥崎宮(福岡県福岡市東区箱崎1丁目22番地1号)訪問日 令和5年5月22日
筥崎宮は筥崎八幡宮とも称し、宇佐、石清水両宮とともに日本三大八幡宮に数えられている
大都市福岡市にあることから駐車場の有無を確認してからの出発となった



石造一ノ鳥居(重要文化財)
鳥居の柱は三段に切れ、下肥りに台石に続いている
笠木と島木は1つの石材で造られている
貫と笠木の長さが同じ異色の鳥居であり「筥崎鳥居」と呼ばれている



楼門(重要文化財)
文禄3年(1594年)筑前領主 小早川隆景が建立
元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた
以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている



亀山上皇御尊像(福岡県指定文化財)
鎌倉時代中期の元寇(蒙古襲来)に際し
「我が身を以て国難にかわらん」と敵国降伏の祈願をし、博多の街の安寧を祈願された亀山上皇を顕彰し、明治37年(1904)完成した
彫刻家・山崎朝雲作で、その大きさは約6m



「敵国降伏」の扁額に最初は驚いたが、当時、モンゴル帝国に勝利したのは日本だけで世界を驚嘆させた
当時の日本人の気概を感じた言葉に思えてきた



17 戒壇院(福岡県太宰府市観世音寺5-6-1)訪問日 令和5年5月22日
隣にある観世音寺の金堂をずっと戒壇院だと思い発信してきた
今回初めて金堂の奥に戒壇院があることを知り訪れた



本堂(福岡県指定文化財)
奈良時代において、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置された施設
筑紫野の戒壇は天平宝字5年(761年)聖武天皇勅願により観音寺境内に設置された
*元禄16年(1703年)戒壇院は観世音寺から独立



鑑真は754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行なった。これが最初の戒壇である
その後、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国の薬師寺に戒壇を築いた(天下の三戒壇)
本尊:木造盧舎那仏坐像(重要文化財)
脇仏:文殊菩薩、弥勒菩薩(太宰府市指定文化財)



鑑真和上供養塔(右)と変形宝篋印塔(左)



18 唐津城(佐賀県唐津市東城内8−1)
唐津城に向かう途中、「虹の松原」という約100万本のクロマツの林の中を約4.5 km にわたって走行した
写真や動画に記録していないが運転してトリハダが立つほど感動した
静岡の「三保の松原」、福井の「気比の松原」と共に日本三大松原の一つに数えられている



駐車場に入り急に嫌な気分になった
料金案内板を見ると普通車が1時間100円に対しキャンピングカーは4倍の400円だという
2時間の料金を見ると900円、倍以上になっている

海岸沿いに弧を描くように伸びているのが「虹の松原」である



1時間以内で何とか駐車場に戻ることができた
400円を手に料金場へ。表示された駐車料金は何と100円だった
本来なら嬉しく思うが、何故か一層腹立たしい気持ちになってしまった



19 湊の立神岩(佐賀県唐津市湊町595)訪問日 令和5年5月23日
この周辺を走っていたとき、人気YouTuber「あいたの~愛犬と楽しくお出かけ~」でこの景勝地を訪れていたことを思い出した
今回の旅でこのYouTuber影響を受け、訪れた3つ目の場所になる



別名夫婦岩とも呼ばれている
約30mの大きな岩の柱が人のように寄り添っている



この巨岩は火山の噴火によってマグマが冷え固まったとき、ブロック状になった玄武岩でできている



私の横を老人のサーファーが通っていく
湊の立神岩は九州におけるサーフィンの発祥地として有名だそうで波打ち際には若者達が楽しんでいた
この老サーファーは独り波の高い場所へ移動しスタート
お爺さんは山に柴刈りに行ったのは昔の話しで、海に波乗りに行く時代になった



20 平戸ザビエル記念教会(長崎県平戸市鏡川町259-1)訪問日 令和5年5月24日
平戸といえばキリスト教のイメージがある
信仰心はないが宗教施設(建築物)には昔から興味を持っていた



「寺院と教会の見える風景」として平戸を代表する景観の一つとなっている
平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地



「聖フランシスコ・ザビエル記念像」
ザビエル以降に来日したイエズス会宣教師たちによって平戸島や生月島では多くの住民がカトリックの洗礼を受けた
江戸時代の禁教令下でも隠れキリシタンとして信仰を受け継いでいった人が多かったという



「聖母マリア像」



周辺で写真を撮っていると親子連れの観光客が「綺麗」と大きな声を発していた
近寄ってみると聖堂の十字架の上に太陽と雲があり美しい光を放っていた






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2023年放浪の旅 思い出の情景 その3

2024年04月28日 | 旅日記
2023年放浪の旅 思い出の情景 その3

11 元乃隅神社(山口県長門市油谷津黄498)訪問日 令和5年5月20日
外国人観光客が日本に凄い神社があるとインスタで紹介し外国で話題になった神社である
そのことが日本でも紹介され人気となり、訪れてみたいと思っていた
その頃、地元の方からは渋滞で3~4時間はかかる、道が狭くUターンもできない
ハイエースでは離合困難であるなど云われ決断できないでいた



前日、道の駅の案内所で確認すると最近はそれほど混雑していないと話してくれた
確かに拍子抜けするほど順調で駐車場に着いた
アメリカのCNNが平成27年(2015年)3月に発表した日本の最も美しい場所31選の一つとして選ばれた



昭和30年(1955年)地元の網元であった岡村斉の枕元に白狐が現れた
「吾をこの地に鎮祭せよ」というお告げがあり「元乃隅稲成神社」として建立された
宗教法人に属せず個人所有の神社である



鳥居中央にある高さ5mのハートマークの賽銭箱
「日本一入れづらい」と云われている






12 角島大橋(山口県下関市本土 - 角島間)訪問日 令和5年5月20日
若い頃から車の運転は好きだったが初めて角島大橋を走ったときには鳥肌が立った
北海道からは遠いが2年に一度は訪れている



横断歩道を渡りながら



橋の両側の海は晴れた日には、エメラルドグリーンやコバルトブルーの美しい色をしている
今日は波もありサーファーの姿も見える



13 赤間神宮(山口県下関市阿弥陀寺町4-1)訪問日 令和5年5月20日
水天門及び回廊(国登録有形文化財)
壇ノ浦を望む竜宮造の楼門
「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる
初めて訪れたときには歴史的背景も理解していなかった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に興味を持ち、この時代の本なども購入しての再訪である



文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水
建久2年(1191年)赤間関(下関)に、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた



耳なし芳一堂



壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門(14名)の合祀墓(供養塔)
名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する



日清講和記念館(国登録有形文化財)
明治維新後、日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、明治27年(1894年)8月、甲午農民戦争(東学党)の乱をきっかけに開戦した
日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診
会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がったが、伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表した



伊藤博文・陸奥宗光胸像
日本側は内閣総理大臣 伊藤博文と外務大臣 陸奥宗光の両名を全権弁理大臣に任じた



講和会議が開かれた春帆楼の二階大広間を再現



*余談になるが、陸奥宗光の妻 亮子は絶世の美人(その生き方にも感動する)

14 宗像大社 辺津宮(福岡県宗像市田島2331)訪問日 令和5年5月21日
宗像大社(世界遺産)
宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)の三社の総称
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして世界文化遺産登録されている



拝殿(重要文化財)
天正18年(1590年)、時の筑前領主・小早川隆景が再建



本殿(重要文化財)
辺津宮 祭神:市杵島姫神(イチキシマヒメ)



御神木
枝は横に伸び、その先には参拝者がガイドの話を聞いている



前日、旅行中使用していたノートパソコンが突然動かなくなった
近くのヤマダ電機で状況を見てもらったが修理不可(SSDに換装しているため)とのこと
私の旅ではパソコンが必要なので購入することにした

本来は楽しい旅なのに気持ちはかなり落ち込んでいた
初期設定が面倒なのでお願いし、これから受け取りに行く

15 宮地嶽神社(福岡県福津市宮司元町7-1)訪問日 令和5年5月22日
宮地嶽神社の総本社
年間参拝者数220万人を数え初詣参拝者(100万人以上)は太宰府天満宮に次ぐ2番目と九州を代表する神社の一つ
男坂とよばれる参道石段(2016年「嵐」のテレビCM「光の道」の舞台になった)



2月下旬、10月下旬の年に2度、男坂の石段から宮地浜まで真っ直ぐに伸びる参道の延長線上に夕日が沈み、「光の道」と呼ばれている
この時期に「夕日のまつり」が開催されている



「手水舎」
このような手水舎は寺社巡りをして初めて見た
水が透明の板の上から流れ、下には花(実に美しい)



日本一の大注連縄
この神社を訪れるきっかけとなったのは日本一だという大注連縄
ここを訪れる数日前に出雲大社を参拝し大注連縄を見ているだけに興味が湧いた



宮地嶽神社 「奥の宮八社巡り」
初めて訪れる神社ということもあり巡ることにした
「一社一社をお参りすれば大願がかなう」という



「三番社・不動神社」
この神社だけ他とは異なり石室(横穴式石室古墳)の奥に不動尊が祀られている



この古墳は地下の正倉院と呼ばれ、金の鐙・冠・馬具類・大太刀等数多くの埋蔵物が発掘され、20点が国宝に指定されている



紫陽花園では、十二単、深山八重ムラサキ、墨田の花火などの品種を400株ほど植栽している



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2023年放浪の旅 思い出の情景 その2

2024年04月27日 | 旅日記
2023年放浪の旅 思い出の情景 その2

06 八重垣神社(島根県松江市佐草町227)訪問日 令和5年6月17日
日本神話に登場する「ヤマタノオロチ」を退治した素戔嗚尊とその妻になった櫛稲田姫縁の神社である
訪れてみたい神社の一つでもあり、楽しみにしていた



素戔嗚尊は天より降って出雲の國の簸の川上に到った。その時、川上で泣き声が聞こえた
素戔嗚尊は泣いていた理由を尋ねた
老夫婦にはもともと八人の娘がいたが、毎年一人ずつ八岐大蛇という怪物に食べられてしまい、末娘の奇稲田姫だけになってしまった
素戔嗚尊は、「八岐大蛇を退治する代わりに奇稲田姫を嫁に欲しい」と申し出た
素戔嗚尊は八回醸した酒を作らせ、八面に塀を立て、各々一つずつ樽を置き、酒を盛らして待った
大蛇が現れ酒を飲もうとして、頭を各1つの樽に入れて飲み、酔って眠ってしまった
そこで素戔嗚尊は十握剣(とつかのつるぎ)を拔いて、ずたずたに八岐大蛇を斬った
尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を割り裂いて見ると、中にひとふりの剣があった
これがいわゆる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」である



「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」



小泉八雲も奇稲田姫が八重垣を造り避難し、飲料水を得、姿を写していたという「鏡の池」に興味を示していた
現在は、占い紙に硬貨をのせ浮かべ早く沈むと良縁が早く遅く沈むと縁が遅いという「占いの池」になっている



07 島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市大社町杵築東 99 番地 4)訪問日 令和5年6月18日
出雲を旅すると必ず訪れる場所がこの博物館(出雲大社の隣にある)
常設展示室では写真撮影が許されているため何度も訪れている

やはり平安時代のこの神殿には夢がある
平安時代中期に編纂された児童向けの学習教養書『口遊』(くちずさみ)に「雲太、和二、京三」とある
雲太謂出雲国城築明神神殿 和二謂大和国東大寺大仏殿 京三謂大極殿、八省



これは、当時の大建築の順位を表したのだという
1位は出雲大社 2位は東大寺 3位は京都御所、大極殿



荒神谷遺跡より出土した銅剣358本・銅矛16本、銅鐸6個(国宝)






「景初三年」銘三角縁神獣鏡(神原神社古墳)(重要文化財)
卑弥呼の鏡か(夢があって楽しい)




08 出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東195)訪問日 令和5年6月18日



人気の大注連縄は神楽殿に張られている
長さ約13メートル、重さ5.2トン
私の後ろにはカメラを構えて待っている人が沢山いるという状況(汗)



神社神道では、神様に向かって右方を上位、左方を下位とし、一般的に神社では上位の右方が綯い始めで、左方を綯い終りとする張り方となっている
しかし出雲大社では古来、他の神社とは反対に神様に向かって左方を上位、右方を下位としている



本殿(国宝)
祭神:大国主大神 江戸時代 延享元年(1744年)の造営
本殿を真後ろから拝観



稲佐の浜
出雲大社の西方1kmにある海岸で、国譲り、国引きの神話で知られる浜



09 岩谷山 心覚院 来迎寺(島根県浜田市松原町266)訪問日 令和5年5月19日
重要文化財の「木造阿弥陀如来立像」の拝観が目的で訪れた
仏像拝観をお願いすると住職から寺の歴史と仏像の説明なども丁寧にしていただいた
仏像を観るのが好きだが多くの寺院では撮影禁止なのが残念だと話すと
「自由に撮ってください」と言われた



木造阿弥陀如来立像(重要文化財)
漁師が沖に浮かぶ光を放つ箱を引き上げたところ、中からこの仏像が現れたと云い伝えられている
建長7年(1255年)6月18日の造営銘文があり「安阿弥(快慶)」風の立像である






住職から、横から観る姿が美しいといわれた



一般の寺院は仏像を撮ることなどできないが、今回、とても貴重な体験となった



10 清瀧山 浄光院 萬福寺(島根県益田市東町25-33)訪問日 令和5年5月19日
本堂(重要文化財)
室町時代前期(1374年)の建立



本堂内襖絵



本尊:阿弥陀如来



文明11年(1479年)15代城主 益田兼堯(かねたか)が画聖雪舟を招き、石庭(国史跡名勝)を造らせた



雪舟庭園(国の史跡及び名勝)を殿様になった気分で部屋から鑑賞




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2023年放浪の旅 思い出の情景 その1

2024年04月26日 | 旅日記
2023年放浪の旅 思い出の情景 その1

01 国宝 犬山城(愛知県犬山市犬山北古券65-2)訪問日 令和4年5月12日
この年の春、あと2年、車中泊による放浪の旅を継続しようと決めた時、最初に頭に浮かんだのが犬山城であった
全国唯一の個人所有の城として保存されてきたが、平成16年(2004年)「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在にいたっている
若い女性が所有している国宝の城というのを雑誌か何かで知って訪れたのが最初である



調べてみると6年ぶり4回目の訪問になる
自分の意思で訪れた最初の城ということもあり思いいれが深い
犬山駅から木曽川沿いを城を眺めながら徒歩で訪れた時の記憶が今でも鮮明に残っている



成瀬家12代城主「成瀬正俊」 周囲のものとは違う写真
写真家 篠山紀信氏が撮影したという
この写真を選んだのが13代城主「成瀬淳子(公益財団法人 犬山城白帝文庫 理事長)」だと係の人が話してくれた



02 大垣まつり、大垣城、奥の細道むすびの地記念館(岐阜県大垣市)訪問日 令和5年5月13日
前回、大垣城を目指していたが駐車場がなく断念
今回も駐車場を探していると、多くの警察官の姿が目に入ってきた

大垣まつり(国重要無形民俗文化財)
大垣市役所周辺に来ると、犬山市で観た車山(やま)が集まってきていた
開会式で知ったのだが、この日は、4年ぶりの開催となる「大垣まつり」の当日だった
360年余の歴史がある大垣まつり、偶然とはいえ絶好の機会に恵まれた



車山を、男達が豪快に持ち上げて方向転換する「どんでん」は確かに迫力がある
狭い道路上ではかなりのテクニックが必要になることは想像できる



大垣城
国宝だった大垣城は昭和20年の空襲で焼失した
天守は昭和34年(1959年)に、乾櫓は昭和42年(1967年)に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元された



戦国時代には大垣城は戦略上重要な地点であったため争奪戦が繰り返された
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となった



戸田氏鉄公騎馬像
寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となった



奥の細道むすびの地記念館
元禄2年3月27日に江戸深川を出立した芭蕉は、門人の曽良をともない、東北・北陸地方をめぐり、8月21日に大垣に到着した
係の女性の話によると、芭蕉は奥の細道のむすびの場所に、この地を最初から選んでいたという



黛まどか氏が名誉館長でAVシアター(200インチスクリーンの3D映像)による解説を行っている
昔からファンで惹きつけられる魅力がある



03 佐伎治(さきち)神社(福井県大飯郡高浜町宮崎59-3)訪問日 令和5年5月15日
ネット検索により、車中泊をした道の駅の近くに1800年の歴史を持つという神社を見つけた



境内には多くの狛犬が置かれている



駐車場に戻ろうとしたとき、「大きなカメラですね」とスエット姿の男性から声をかけられた
有名寺社の写真を趣味で撮っていると話すと、実は宮司だと名刺を渡され拝殿の奥まで案内してくれた
金ぴかの狛犬だが修復してこのようになったそうだ



宮司と会話する機会はこれまでなく、祭神について疑問に思っていることを尋ねてみた
私の質問の内容は祭神の形についてである
それは神社では秘密で言えないことになっていると話してくれた



その後も境内を案内され神社の歴史などについても説明を受けた
そのほとんどは記憶からなくなっているが、神社に対する興味は、以前より増してきた



国旗を掲揚している神社などほとんどないなか清々しさを感じていた
そのことを伝えると、理解して貰って嬉しいと言われた



04 亀居山 大乗寺(兵庫県美方郡香美町香住区森 860)訪問日 令和5年5月15日
「応挙寺」の名前で知られる大乗寺
江戸時代の画家 円山応挙とその弟子たち12名の筆になる障壁画が165点が重要文化財に指定されている
私の知人に画家がいて、その影響なのか時折このような寺や美術館も訪れている



大乗寺と円山応挙との関係について
応挙が京都で苦学をしていたところ、当時大乗寺の住職であった密蔵上人が才能を見込んで学資(銀三貫目)を援助した
客殿の建築のときに、恩返しとして一門の弟子と共に大乗寺の障壁画を描いた



内拝料:大人/1,200円 子供/600円(小学生)
客殿の障壁画は計算しつくされた配置により、立体的な曼荼羅を構成している
宗教的空間の具現化を意図したものではないかといわれている



5年前に一度訪れているが、団体さんの後ろで説明を聞いていたのでよく理解できなかった
今回は私一人だったので説明もわかりやすく、質問にも適切に応えてもらうことができた
残念なところがあり、目にしているのは、デジタル再製画
本物は重要文化財の襖絵165面を災害と腐食から保護するための国内最大の収蔵庫に収められていること



05 会見山 安養寺(鳥取県米子市福市724)訪問日 令和5年6月17日
後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の計画が露呈した事で捕縛され隠岐に流されることになった
後醍醐天皇皇女瓊子(たまこ)内親王も変装して随行したが、渡航の直前に身分が知られ隠岐に渡ることが許されなかった
内親王は隠岐に近いこの地に留まり遊行五代安国上人の弟子となる
16歳の時に尼(西月院宮安養尼)となり後醍醐天皇の勅願寺として安養寺を開基した



「後醍醐天皇社」
後醍醐天皇は、第96代天皇および南朝初代天皇
鎌倉幕府の両統迭立を壊すために、後醍醐天皇は倒幕運動を行ったが失敗
元弘2年(1332年)隠岐に配流された
南北朝の内乱で劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日 義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、崩御した



「後醍醐天皇皇女 瓊子内親王墓<宮内庁>」
暦応2年・延元4年(1339年)8月1日死去 24歳 法号は安養尼



後醍醐天皇崩御の2週間前に死去している
父親思いの娘の話を知りこの寺を訪れたが、その思いが伝わってきたような感じがした



<次回に続く>
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シリーズ仁王像 1(北海道・東北)

2024年04月25日 | 仁王像
シリーズ仁王像 1(北海道・東北)
02 青森県(最勝院、法光寺、<新規>菩提寺
03 岩手県(高館義経堂、常堅寺、福泉寺)
04 宮城県(<新規>華足寺、箟峯寺
05 秋田県(真山神社、<追加>天徳寺
06 山形県(慈恩寺。<新規>堂森善光寺、笹野観音堂
07 福島県(勝常寺、青龍寺、<新規>堂山王子神社

02 青森県
02-01 金剛山 光明寺 最勝院(青森県弘前市大字銅屋町)






02-02 白華山 法光寺(青森県三戸郡南部町)






<新規>
02-03 恐山 菩提寺(青森県むつ市田名部字宇曽利山3-2)






03 岩手県
03-01 高館義経堂(岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所)
「北方的な趣がある彫像」との説明書きがある









03-02 蓮峰山 常堅寺(岩手県遠野市土淵町)
遠野市指定文化財






伝慈覚大師(円仁)作の仁王像(総丈3.5m)






03-03 法門山 福泉寺(岩手県遠野市松崎町駒木)






04 宮城県
<新規>
04-01 竹峰山 華足寺(宮城県登米市東和町米川字小山下2)
二天像(条件が悪くピンボケ)
「増長天」南方を護る守護神 青い顔で宝剣を持った姿で表される



「多聞天」北方を護る守護神



<新規>
04-02 無夷山 箟峯寺(宮城県遠田郡涌谷町箟岳字神楽岡1)
仁王像(微笑み仁王)
憤怒の表情ではなく、微笑んでいるように見える

阿形像(金剛神・東王父)






作者は、法橋雲竜安高<天保14年(1843年)完成>



吽形像(執金剛仏・西王母)









05 秋田県
05-01 真山神社(秋田県男鹿市北浦字真山)
仁王門は江戸時代中期のもので別当であった光飯寺の山門であったものが明治時代より神社の神門となったもの






<追加>
05-02 萬固山 天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根)
秋田市指定文化財
桂材の寄木造で高さ3.2m 九代藩主 佐竹義和の命令によって造られ、寛政9年(1797年)に完成



制作者は京都の大仏師・七条左京(台座に墨書)



<追加>






06 山形県
06-01 瑞宝山 慈恩寺(山形県寒河江市大字慈恩寺)












<新規>
06-02 松心山 善光寺<堂森善光寺>(山形県米沢市万世町堂森山下375)












<新規>
06-03 長命山 幸徳院 笹野寺<笹野観音堂>(山形県米沢市笹野本町5686-5)
この寺の仁王像は、格子の奥にさらに金網があり二重に護られている










07 福島県
07-01 瑠璃光山 勝常寺(福島県河沼郡湯川村大字勝常代舞)












07-02 文殊院 青龍寺(福島県大沼郡会津美里町字文珠西甲)












<新規>
07-03 堂山王子神社(福島県田村市船引町門沢東ノ前)
「龍頭山 堂山寺」の観音堂として建てられたものが、神仏分離による廃仏毀釈運動から逃れるために「堂山王子神社」と改称



宝暦11年(1761年)の棟札があるということから長い歴史を持つ仁王像



歌舞伎役者の隈取りのような顔面










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萬固山 天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根10-1)

2024年04月24日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月19日

萬固山 天徳寺
曹洞宗の寺院
寛正3年(1462年)当時の佐竹家当主佐竹義人が夫人を弔うため、常陸国久慈郡太田村(茨城県常陸太田市)に創建
佐竹氏の秋田への国替えに伴って秋田に移された



寛永元年(1624年)総門を残して全焼したため、翌年、現在地である秋田郡泉村の泉山に移された
その後、延宝4年(1676年)に再び火災が起こり、総門と山門を残して全焼
9年の月日をかけて再建され、現在に至る



総門(重要文化財)
切妻造瓦葺きの四脚門
延宝4年(1676年)の火災をまぬがれ、現在地に移築された



扁額には山号の「萬固山(まんごさん)」



参道には古い石畳が敷かれ、その両脇には約120本もの松が生い茂っている



天徳寺に向かう途中、予報通り雨が降り出し駐車場で小雨になるまで待機していた
総門には一番楽しみにしていた茅葺屋根の本堂が工事中との案内もあった(落胆)



山門(重要文化財)
宝永6年(1709年)の建立
三間一戸(柱間が3間で中央1間を通路とする)、瓦葺きの楼門



久保田藩主(秋田藩主)佐竹家の菩提寺
秋田県知事の佐竹 敬久氏は、佐竹北家の末裔で21代目にあたる



仁王像(秋田市指定文化財)
仁王像のある各寺院で撮っているが、ここもハードルが高い



強い雨で身動きがとれなくなったので工夫してみた
撮っている姿は完全に不審者で他に参拝者がいなくて良かった
過去にその姿を見た警官に職務質問を受けたこともある



桂材の寄木造で高さ3.2m 九代藩主 佐竹義和の命令によって造られ、寛政9年(1797年)に完成
制作者は京都の大仏師・七条左京(台座に墨書)






本堂(重要文化財)
貞享4年(1687年)の建立
入母屋造、茅葺き、間口約30メートルの大建築
内部は左右4室・前後2列の8室に分かれ、前面に板敷きの内縁がある
建物の正面右側に玄関、背面左側に開山堂が付属する



平成28年(2016年)に訪れた時、茅葺屋根が美しかったという記憶があり、今回の再訪になった
山門から先は工事のため立入禁止になっていて本堂の様子は分からないが、屋根は新しくなっていた

平成28年(2016年)に訪れた時の天徳寺<過去写真>
萬固山 天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

萬固山 天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

久保田藩主佐竹氏の菩提寺であるという雑誌の情報を頼りに訪れた寺である専用駐車場に車を駐め、門を見た瞬間、期待できると思った萬固山天徳寺寛正3年(1462)、佐竹家当主...

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佐竹家霊屋(重要文化財)にも近寄ることはできなかった



小降りだった雨も豪雨に
この先、数日間、東北地方は雨予報ということもあり旅を終え、自宅に戻ることにした



撮影 令和5年10月19日
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太平山三吉神社(秋田県秋田市広面字赤沼3-2)

2024年04月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月19日

太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)
天武天皇の白鳳2年(673年)5月、役の行者小角の創建と伝えられている
桓武天皇の延暦20年(801年)征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征討の際、戦勝を祈願して堂宇を建立したと伝えられている

社号標



狛犬1






鳥居
古くからある神社正参道



額には社号の「太平山三吉神社」
拡大してみると「元帥伯爵東郷平八郎謹書」
「天気晴朗なれども波高し」当時無敵のバルチック艦隊に連合艦隊司令長官 東郷平八郎が勝利
東郷の名を見ると、高校時代日本史の授業で熱く語ってくれた元特攻隊員だった恩師のことを思い出す




狛犬2






案内板
説明文を読むと「奥宮」と「里宮」がある
かつて女人禁制だった太平山は、非常に険しい山であり、また11月から5月にかけては雪に覆われ登拝が出来なかった
そこで年間を通して老若男女が参拝できる里宮が建立された



「新年献酒」の樽をみても秋田が酒所ということが分かる
現在、日本で一番の人気で入手困難な日本酒「新政」もある



手水舎



拝殿
昭和52年(1977年)竣功
祈祷拝殿、授与所、社務所等が併設されている



屋根は太平山の姿を模した変形の流造り



拝殿の彫刻






拝殿内部
祭神:大己貴大神、少彦名大神、三吉霊神の三柱
*三吉霊神は、秋田で生まれた守護神



奉納額



こちらは明治時代の奉納額



太平山奥宮
太平山(標高1,170m)
古くより薬師の峰・修験の山として信仰を集める



「太平山遥拝所」



山頂には奥宮御社殿と参籠所(山小屋)がある



宮比(みやび)神社



御祭神:宮比大神、坂上田村麻呂大宿禰



奉納剣









東参道と鳥居



撮影 令和5年10月19日
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皇宮山 蚶満寺・九十九島(秋田県にかほ市象潟町象潟島)

2024年04月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月19日

皇宮山 蚶満寺
近くに道の駅「象潟」があり、展望温泉も併設されていることからよく利用している
坩満寺もその都度訪れているので、今回はやめようかと思ったがやはり足が向いた



「象潟」九十九島の案内を見て、今日はここからスタートすることにした
春に訪れた長崎県の「九十九島」は、平戸藩主 松浦静山が、出羽国(秋田県)の「象潟九十九島」に倣い名づけたという






松尾芭蕉像
元禄2年(1689年) 俳人・松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で訪れた最北の地として広く知られている



芭蕉は、西行ゆかりの桜の老木、神功皇后のお墓などを訪ねている



西施像
西施(せいし)は、古代中国の四大美女の一人(他の3人は王昭君・貂蝉・楊貴妃)



越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施がいた
策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる



芭蕉は、「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛している
ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠んでいる






さて、九十九島巡りをしよう



「島めぐりコース」と「近道コース」がある
以前、訪れた時には2.3kmの「島めぐりコース」を選択した



田圃や畑に囲まれたあぜ道が遊歩道になっている
正面に見えるような島が点在している



約2500年前(紀元前466年)に鳥海山の山頂付近が山体崩壊を起こし大きく崩れた
そのときの大量の土砂が岩なだれとなって数分で日本海まで流れ込んだ
その土砂は日本海を埋め立て多くの「流れ山」ができた



やがて砂州が伸び、東西約1km南北約2kmの浅い潟湖ができ、「九十九島」と呼ばれる日本三景の松島のような風景になった
芭蕉が訪れた、元禄2年(1689年)には
「象潟に船を浮かべ、能因島を訪ね、さらに干満珠寺(蚶満寺)にある西行……」とあるので島以外の平地は潟湖だった



文化元年(1804年)7月にマグニチュード7と推定される大地震が起こり、秋田県内で倒壊家屋5000以上、死者500人以上という大きな被害が出た
そのとき象潟は一夜にして地面が約2m盛り上がり、潟湖の水が流れ出し、現在のような風景ができあがった



現在、象潟は「史蹟、名勝、天然記念物」に指定されている



10月下旬ともなると秋らしい風景になっていく



今回、私が選択したコースは「超最短コース」で実際には100m程度しか歩いていない



「2.3km 島めぐりコース」撮影:平成28年(2016年)5月 <下記画像をクリック>
象潟(秋田県にかほ市象潟象潟島) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

象潟(秋田県にかほ市象潟象潟島) - 今、出発の刻(たびだちのとき)

旅をしていると全国各地に芭蕉ゆかりの土地があるこの象潟(きさかた)は芭蕉が訪れた北限の地としても有名である史跡名勝天然記念物象潟元禄2年(1689年)に芭蕉が訪れた『...

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奥に見える山が鳥海山



坩満寺参道



坩満寺山門



扁額の文字は薄くて読めないが以前受付で尋ねると
「羽海法窟(羽州の海にある修行場)」と書かれているそうだ



山門の彫刻



仁王像












この日の天気予報は雨ということもあり、次の目的地に向かうことにした



撮影 令和5年10月19日
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鳥海山大物忌神社(山形県飽海郡遊佐町吹浦布倉1)

2024年04月21日 | 神社・仏閣
訪問日令和5年10月18日

鳥海山大物忌神社(史跡)
出羽国一宮
創祀は欽明天皇25年(564年)の御代と伝えられている
本社は山頂に鎮座し、麓に「口の宮」と呼ばれる里宮が「吹浦と蕨岡」の二ヶ所に鎮座している

社号標と一の鳥居
以前、同じ遊佐町にある「十六羅漢岩」で写真を撮っていると、地元の方から声をかけられた
寺社巡りをしていると話すと、地元では有名な神社だとここを強く勧められた



二の鳥居
岩の上を歩いた後なのでかなり疲れていたが、地元の方の熱意に応えて訪れたのが最初で、今回が再訪となる



境内図



下拝殿






由緒(略誌)



前回訪れた時には、疲れもあったこともあり、この石段を見て直ぐに「諦めてしまった」
その事が頭の片隅にあり、ずっと気になっていた



狛犬
顔面部分が欠損している






遅くなったが、ここは、麓にある「口の宮」と呼ばれる2カ所の里宮のうち「吹浦(ふくら)」という場所になる
参拝者は私一人だったので自分のペースでゆっくり石段を上がった



三の鳥居
百数十段のあるという石段も覚悟を決めて上ると、それほど苦労することはなかった



鳥居の奥に社殿が見える



「境内図」



拝殿
境内図によると、ここが拝殿になる






拝殿内部



案内板






離れた場所から見ると二つの屋根を確認することができる



左側に移動してみる



更に階段があったので上ると朱色の社殿が見えてきた
手前にあるのが摂社 月山神社本殿(登録有形文化財)
奥にあるのが、大物忌神社本殿(登録有形文化財)祭神:大物忌神



摂社 月山神社本殿(登録有形文化財)
祭神:月山神(つきやまのかみ)






大物忌神社本殿を見ようと試みたが駄目であった
二つの本殿の中央に置かれていた石(何か意味があるのであろう)



白山姫神社






風神社



雷電神社



この場所は「吹浦ノ口本殿」で、本社は鳥海山の山頂にある
山岳信仰の中心を担ってきており出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる鳥海山を神体山としている



この階段、上から見ると急だと分かる
手すりを利用し安全に下りる



この年の春の放浪旅から、一宮神社巡りを旅の目的の一つに加えた
これで東北6県にある「一宮神社」をすべて巡ったことになる



撮影令和5年10月18日
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遊佐蒸溜所(山形県飽海郡遊佐町吉出字 カクジ田20番地)

2024年04月20日 | 蒸溜所・酒蔵
訪問日 令和5年10月18日

遊佐蒸溜所
2018年10月に「世界が憧れる酒を、ここ山形から」を目標に設立された蒸溜所
「コストや手間ひまを厭わず、あくまでも品質を追求して高みを目指す」という基本姿勢を貫いている



BSフジの「ウイスキペディア」で放映されたことで、その存在を知った
残念ながら、蒸溜所の一般見学はされていないので、道路から建物を眺めその雰囲気を感じていた



TV番組で興味を持ったのは、素人の理系女子2人がウイスキー造りをしているということだった



その後、3年の熟成を経た記念すべきボトル
YUZA シングルモルト ジャパニーズウイスキーファーストエディション2022が
「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ(ISC)2022」テイスティングアワードで「GOLD」を受賞した



私の住む北海道では数量限定のボトルは入手困難であったが、昨年から酒屋で入手できるようになった
YUZA 2023 シングルモルト ジャパニーズウイスキーが最初に購入したボトル
YUZA シングルモルト ジャパニーズウイスキーサードエディション2023も入手
YUZA シングルモルト ジャパニーズウイスキースプリング・イン・ジャパン2024は酒屋の棚に並んでいる



小規模蒸溜所を応援するためにこれまでボトルを購入してきた
このウイスキーブームはいつまで続くかわからないが、「遊佐のこだわり」を貫いて欲しいと思う



蒸溜所の周辺は田圃というより、田圃のなかに蒸溜所があるという感じだ
遠くに見える山は鳥海山



撮影 令和5年10月18日
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山居倉庫(山形県酒田市山居町1丁目)

2024年04月19日 | 名所・旧跡
訪問日 令和5年10月18日

山居倉庫(国指定史跡)
明治26年(1893年)旧藩主 酒井家によって建てられた米保管倉庫
NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなった



今回は倉庫の正面から回ってみた



小鵜飼船
倉庫から舟までは、女丁持(おんなちょうもち)と呼ばれる女性によって運ばれた
一俵60kgの米俵を5つ(300kg)背中に担いだという記録(写真)が残っている






平成30年(2018年)時点で12棟が残り、このうち9棟は現役の米蔵として使用されていた
山居倉庫は令和3年(2021年)国の史跡に指定され、米倉庫としての使用は2022年度末で終えた



倉庫の中央に通路があり、その先に神社が見える






東宮殿下行啓記念館
東宮(後の昭和天皇)の山居倉庫行啓を記念して建てられた
昭和元年(1926年)に建てられた米穀貯蔵の研究施設



東宮は皇太子の居所、転じて、皇太子そのものを意味する言葉
大正時代は皇太子ではなく東宮が一般的だったのか



さんきょばし



歴史ある外観だが、竣工は平成5年7月



庄内米歴史資料館
12棟のうち1棟は資料館として改装された



奥まで歩き反対側に出る
陽射しの影響で倉庫の色が白っぽく見えているが実際は黒色に塗られている



観光客がいないこの瞬間を撮るには、それなりの忍耐力が必要になる



三居稲荷神社



12棟ある倉庫の中間に位置している



額には寺号の「三居稲荷神社」
山居倉庫の「山居」ではなく「三居」になっている



拝殿内の「奉納額」












振り返って一枚



欅並木
倉庫の西側には41本の欅が植えられ、陽射しを遮ると同時に冬の強い季節風から建物を守っている



欅並木は、様々なCM撮影等でも活用されている
酒田で一番人気のフォトスポットになっている
写真家 土門拳氏も冬の山居倉庫の作品を残している



山居倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)
夏の高温防止のために背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にしている
自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫になっている









12棟ある倉庫の2棟は酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」として利用されている
酒田の様々なお土産を購入することができる
前回は大阪に住む大学時代の朋友に勧められ、山形県産ブランド米「つや姫」を購入した

売店の奥にこのような場所があった

坂田山王祭祭礼用亀笠鉾(酒田市指定有形民族文化財)












連続テレビ小説「おしん」のロケ地
昭和58年(1983年)4月から1年間にわたって放送されたNHK朝の連続ドラマ「おしん」
私は平成31年(2019年)4月にBSプレミアムで再放送されたのを視聴した



最高視聴率62.9%を記録し、世界では60の国を超える国々が放送
少女期のおしん役の小林綾子の演技には感動した



人形作家 大滝博子
物産館「酒田夢の倶楽」では人形作家 大滝博子さんが、明治・大正・昭和と激動の時代を力強く生き抜いた女一代記を表現している

「おしんの生家」












「最上川の別れ」






「奉公先のおしん」






『おしん』の脚本を手掛けた橋田壽賀子は、山居倉庫の存在を知り、その倉庫を見た瞬間、これでドラマができると確信したという
貧しい農家に生まれた「おしん」が米一俵で、身売りされ、酒田に奉公に出される……






テレビの内容など忘れかけていたが、この小さな人形を夢中で撮っているうちにいくつかの場面が鮮明に蘇ってきた



「我々は、おしんに忍耐を学ぶのではない、心の美しさと、その持ち方を学ぶのだ」






撮影 令和5年10月18日
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土門拳記念館(山形県酒田市飯森山二丁目13)

2024年04月18日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和5年10月18日

土門拳記念館
昭和49年(1974年)酒田市名誉市民第1号となった土門拳は、自分の全作品を郷里酒田市に贈りたいと語った
酒田市はそれに応え、昭和58年(1983年)写真専門の美術館「土門拳記念館」を開館した



20年ほど前に最初に訪れた時には400円だった入館料も現在は1,200円になっている(昨年は800円)
入館者も1時間ほど滞在したが、ほんの数人程度でかなり減っているような感じがしている



昔は、旅の始めに土門拳の写真を観て、感動した写真の寺や仏像を巡る旅をしていた
近頃は足が遠のいていたが、久し振りに寄ってみたいと思った



入館料は高騰したが、いつの間にか「写真撮影可」になっていた
これは、土門拳ファンとしては大変嬉しい出来事だ



記念館には、土門拳の写真を約13万5千点を収蔵している
ライフワークであった「古寺巡礼」をはじめ、「室生寺」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「文楽」「風貌」などの作品を順次公開している



館内の様子






記念館で観た写真に感動し訪れた寺院の写真
展示している作品を撮っているのだが、立体感が凄い

下の写真の仏像は秘仏で常設展示はしていなかった



実物の前に立つと動けなくなるほど美しく感動する






思わずカメラを向けて注意された十一面観音像












毎年のように訪れている、一番美しいといわれている十一面観音像



私がこれまで観た仏像のなかでは、一番美しく魅力的なのがこの十一面観音像だ
お堂の内陣で拝観していたとき、偶々目線が合い「探していた物が見つかった」と心で叫んだ



展示室以外の場所



額のようになっている



老夫婦が休憩している






撮影 令和5年10月18日
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鳥越八幡神社(山形県新庄市鳥越1224)

2024年04月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月18日

鳥越八幡神社
正式名称は「八幡神社」 「鳥越八幡宮」とも称す
社伝によれば、寛喜元年(1229年)に鳥越義宣が相模国から鶴岡八幡宮を勧請、これを「新八幡宮」と称したことに始まるという

鳥居
社殿が重要文化財に指定されているということで訪れた
初めて訪れる神社である



案内板



社務所
社務所周辺で清掃をしている女性に元気な声で挨拶をされた
朝からとてもいい気持ちになった



手水舎



御神木「夫婦杉」
新庄のパワースポットらしい



参道を歩く(左側の胸像については後述)



鳥居
額には社号の「八幡宮」



拝殿(重要文化財)



新庄藩2代藩主 戸沢正誠による元禄4年(1691年)の建立
桁行3間梁間2間、入母屋造平入、銅板葺で、正面に1間の向拝
背面からは幣殿を突出させて本殿に接続している



総素木(しらき)造で江戸時代中期の堅実な特色を示す



拝殿の額には社号の「八幡宮」は、霊元天皇の第1皇子である、済深法親王が揮毫された写しである



拝殿内部






幣殿と本殿



本殿(重要文化財)
新庄藩祖戸沢政盛の養子定盛が、寛永15年(1638年)に建立
大型の一間社流造で、屋根は茅葺であったが、近年銅板葺に改められた
現存する新庄市最古の建造物
祭神:応神天皇



大瓶束(だいへいそく)には「鬼面の彫刻」が施され、梁は「カ士像の束」で支えられている



反対側に移動して同じ彫刻があるか、確認してみた



鬼面・力士像とも表情が若干だが違っている



宮大工の技術の高さにはいつも驚かされる



社殿全体の構成や比例など、随所に洗練された技量が認められるとのこと



松田甚次郎
昭和の初め、宮沢賢治に学んで、この地に農村演劇運動をおこした篤農家
松田甚次郎が「土舞台」を築いたのもこの境内においてである

「義農 松田甚次郎先生碑」



「松田甚次郎像」
明治42年3月3日、市内鳥越の自作兼地主の裕福な農家に長男として生まれた
大正15年(1926年)に盛岡高等農林学校農業別科(現岩手大学)に進学
宮沢賢治が花巻農学校を退職し羅須地人協会(岩手県花巻市に設立した私塾)を設立した年でもあった



盛岡高等農林学校卒業間際の昭和2年(1927年)3月に宮沢賢治を初めて訪ねる
その時、甚次郎が賢治から「小作人たれ」、「農民劇をやれ」という二つのことを諭されたという
これを生涯の実践課題として取り組み、最上協働村塾を開き、塾生とともに農耕にはげみ、経営の合理化を図った






案内板



「土舞台」
村に帰った甚次郎は、村の青年を集めて鳥越倶楽部を結成し演劇活動を始める
彼らは、鳥越八幡神社に自分たちで土舞台を築き、36回もの上演を行った



昭和13年甚次郎は、過去10年間の実践記録「土に叫ぶ」を刊行
全国の青年層から熱烈に歓迎され、たちまちベストセラーになり、東京有楽座で新国劇として上演された



土舞台から美しい社殿を眺める



社殿が目的で訪ねた神社であったが、一人の若者の生き様に感銘を受けた



昭和18年(1943年)は史上まれにみる干ばつの年だった
村では神仏の力に頼るよりほかなしとして、こぞって新田川の水源、八森山に雨乞いに登った
連日の過労に続く、無理な登山は甚次郎の体力を奪っていき、病に倒れ入院することとなった
その病は癒えることなく、8月、35歳の若さで土に帰っていった






撮影 令和5年10月18日
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居合神社(山形県村山市林崎85)

2024年04月16日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年10月17日

この神社を訪れる前夜、車中でパソコンを開きながらダラダラしていた
その時、高校時代に部活動でご指導頂いた恩師から突然Facebookの友達申請の連絡があった
反射的に背筋が伸び両手は膝の上にのっていた(一瞬高校生に戻っていた)

居合神社
その恩師が現在、居合道の師範をされていると高校時代の友人から聞いていた
翌朝になり、居合道について気になったため、調べていくうちに「居合神社」があることを知った
この日は宮城県の道の駅にいたが、仙台市を経由して向かうことにした



鳥居の額には「熊野 居合両神社」
古くは熊野明神、林崎明神とも呼ばれていた



社号標
社号標には「日本一社 居合神社」と刻まれている
居合道発祥の地として全国で唯一の「居合神社」である



狛犬






手水舎



由緒・沿革



拝殿



額には「林崎大明神」



いつものように、隙間からレンズを入れて様子をうかがう



拝殿内部



額には「居合神社」と書いているのか(自信がない)



室町時代から、居合道の始祖「林崎甚助重信」が祀られている
毎年、境内にて居合を中心とした奉納演武が行われている
様々な流派・団体から沢山の方が全国から参加しているという



幣殿・本殿
居合道の祖林崎甚助重信という人物だが、天文11年(1542年)現在の山形県村山市林崎に生まれる
幼少の頃に父が暗殺され、父の仇を討つために剣術の稽古に励む
弘治2年(1556年)に林崎明神に百日参篭 して抜刀の神伝を授かる
※神憑り状態 になったと伝えられている



本殿
永禄2年(1559年) 元服して林崎甚助重信と名を改め仇討ちの旅に出る
永禄4年(1561年)19歳の時、京都にて仇討ちを果たして帰郷
愛刀であった 「信国」を林崎明神に奉納する
「信国」は三尺三寸 (99.99cm)と云われている。通常は2尺4寸 (75.75cm)くらいが一般的であるから、長い刀であった



永禄5年(1562年)母が病により亡くし、重信は再び剣を抱いて旅に出る
この後、 重信は日本全国を旅しながら多くの門弟を育て、居合術を広く伝えていった
その途中で加藤清正に招かれ加藤家の家臣を指南したとも伝えられる



塚原卜伝より「鹿島新当流最高秘伝天下第一之剣」、卜伝一之太刀を授かる
晩年は山形に住み慶長年間に故郷で没したとしている

現在は生まれ育った山形県村山市にある熊野居合両神社 (通称:居合神社) に祀られている



石碑・顕彰碑
「居合大神 林崎甚助源重信公」



各流派












竹駒稲荷神社












意外な人物の名前が……
調べて見ると「全日本居合道連盟」の初代会長が内閣総理大臣 池田勇人だった



高校生活、大学進学や就職と恩師には大変お世話になり多大なる影響を受けてきた
この神社を訪れることができたのも恩師の導きであると考えている(感謝)

撮影 令和5年10月17日
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