気多神社
社号標に「越中国一宮」。越中国一宮を称する神社は他に「射水・高瀬・雄山」神社がある

本殿が重文に指定されていることを知り訪れた

階段の昇降が苦になる年齢になってきているが、先が見えない参道を歩くのは好きだ

鳥居
わら製ではない注連縄に違和感がある

さらに参道が続く

神馬

木々に囲まれて薄暗くなった参道の先に拝殿が見えてくる

拝殿

扁額に社号の「氣多神社」
能登国が越中国に合併されていた時代、国司が着任もしくは定期的に参詣しなければならない国内随一の大社は、羽咋郡の気多大社であった
国府から遠すぎるため国府近くに遥拝所が設けられ、能登国分立後に独立の神社になったという

拝殿内の様子

本殿(重要文化財)
養老2年(718年)に僧行基が創建したと伝えられている
天文年間(1532~1554年)に上杉謙信の兵火にかかり焼失したため、永禄年間(1558~1569年)頃に再建したのが現在に残る本殿と云われている

三間社流造りで正面一間の向拝があり、屋根は柿板葺きで軒は二重繁垂木

主祭神は大己貴命と奴奈加波比売命

神輿堂

大伴神社
大伴家持の没後1200年にあたる1985年(昭和60年)に、地元の有志による大伴家持卿顕彰会によって創建された


越中国司として現在の高岡市伏木に赴任した大伴家持を祀る

小高い場所から社殿を撮る

狛犬

駐車場に戻る

競馬好き馬券下手なもので、神馬には手を合わせる

撮影 平成30年10月18日
社号標に「越中国一宮」。越中国一宮を称する神社は他に「射水・高瀬・雄山」神社がある

本殿が重文に指定されていることを知り訪れた

階段の昇降が苦になる年齢になってきているが、先が見えない参道を歩くのは好きだ

鳥居
わら製ではない注連縄に違和感がある

さらに参道が続く

神馬

木々に囲まれて薄暗くなった参道の先に拝殿が見えてくる

拝殿

扁額に社号の「氣多神社」
能登国が越中国に合併されていた時代、国司が着任もしくは定期的に参詣しなければならない国内随一の大社は、羽咋郡の気多大社であった
国府から遠すぎるため国府近くに遥拝所が設けられ、能登国分立後に独立の神社になったという

拝殿内の様子

本殿(重要文化財)
養老2年(718年)に僧行基が創建したと伝えられている
天文年間(1532~1554年)に上杉謙信の兵火にかかり焼失したため、永禄年間(1558~1569年)頃に再建したのが現在に残る本殿と云われている

三間社流造りで正面一間の向拝があり、屋根は柿板葺きで軒は二重繁垂木

主祭神は大己貴命と奴奈加波比売命

神輿堂

大伴神社
大伴家持の没後1200年にあたる1985年(昭和60年)に、地元の有志による大伴家持卿顕彰会によって創建された


越中国司として現在の高岡市伏木に赴任した大伴家持を祀る

小高い場所から社殿を撮る

狛犬

駐車場に戻る

競馬好き馬券下手なもので、神馬には手を合わせる

撮影 平成30年10月18日