今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

2024秋 放浪の旅(9日目)静岡県

2024年09月30日 | 旅日記
訪問日 令和5年9月30日

道の駅 「伊豆のへそ」(静岡県伊豆の国市田京195-2)
伊豆半島の中央にある道の駅で「へそ」とは、ネーミングが面白い
深夜か明け方に雨が降ったのか、地面が濡れていた



台風の心配もあったが、いつの間にか予報も良い方に変わっていた
朝から訪問予定地選びに悩んだ
当初、あの天城峠を越え下田に向かう予定でいたのだが……



福地山 修禅寺(静岡県伊豆市修善寺964)
修善寺温泉は駐車場を探すのが難しい
昨夜は温泉街なのに、風呂はあるが駐車場がなく、グルグル回り1日500円の駐車場と700円の風呂をやっと見つけた
その駐車場の近くに目的の「修禅寺」があった



ガラスで護られている「仁王像」



NHK大河ドラマ「北条時宗」視聴後、この時代に興味を持ち、吾妻鏡も読んでみた
源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害されたことでも知られている



本尊:木造大日如来坐像(重要文化財)






天守君山 願成就院(静岡県伊豆の国市寺家83-1)
文治5年(1189年)に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、
娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立した



北条時政墓所



墓の横に石碑に彫られた文字



空海像



本堂内に、運慶作国宝仏像5体が安置されている



梓澤要の小説「荒仏師 運慶」に、ここの仏像が出てくるので内容を思い出しながら拝観した
仏像の説明は外国人僧侶?からだった



この後、頼朝と政子縁の三嶋大社を予定していたが変更した

ガイアフロー静岡蒸溜所(静岡県静岡市葵区落合555番地)
国道1号線の速い流れにのり、100kmほど先にある山中に向かった
静岡市から30kmの距離にある蒸溜所だ



予約も無く飛び込みで入ったが、1時間後の工場見学に参加することができた
見学料は1,100円で60分+有料試飲60分というコースである



ここのメーカーのウイスキーは私の地元ではあまり見たことがない



ウイスキーの製造工程はどこも、変わりがないのでどう説明するのかが楽しみの一つである
この大きな地元のスギでできた木桶の1階部分



2階部分は内を覗くことができる高さだが、巨大な木桶だ(10個ある)



昨日から仕込みが開始されたそうだ
これは、大麦麦芽を粉砕する機械



廃業した「軽井沢蒸溜所のポットスティル」



余市蒸溜所は石炭直火だが、ここは木材を使用している



貯蔵庫



天窓もあり明るい貯蔵庫



側にテイスティングする人がいたので、聞いてみると1日50~100樽行うそうだ



有料試飲会場のウイスキー



私は運転するため試飲はできないので、この2本を15mℓの小瓶に詰めてもらった
ボトルの値段を聞くと、2万円弱のウイスキーのようだ



ショップで購入したウイスキー
寺社巡りより費用がかさむのが痛いところだ


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2024秋 放浪の旅(8日目)山梨県・静岡県

2024年09月29日 | 旅日記
訪問日 令和5年9月29日

道の駅「花かげの郷まきおか」(山梨県山梨市牧丘町室伏2120)
昨日、訪れることのできなかった「恵林寺」に近い道の駅でお世話になった
車中泊車も少なく静かな夜を過ごした



朝、車載冷蔵庫のバッテリー不足の警告音で目が覚めた
このサブバッテリーも私と同じく寿命が近いようだ
さて、この建物は「牧丘郷土文化館(旧室伏学校)」



乾徳山 恵林寺(山梨県甲州市塩山小屋敷2280)
もう一度訪れてみたい寺院の一つだった



戦国時代に恵林寺は武田晴信(信玄)により再興される
永禄7年(1564年)11月に美濃崇福寺から快川紹喜が招かれる



四脚門(重要文化財)
レンズが汚れていることを今知った(笑)



三門(山梨県指定文化財)
天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)により武田氏は滅亡
織田氏は恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを要請するが、寺側が拒否
津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって恵林寺は焼き討ちにあった



快川紹喜が燃え盛る三門の上で
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」
と発して火定したといわれる






富士御殿場蒸溜所(静岡県御殿場市柴怒田970番地)
雨予報でもあり、屋内の施設を考えていたときに、頭に浮かんだのはこの蒸溜所だった
70kmほど車を走らせる



工場見学をしたいのだが旅人で予約をしていないと告げると「ちょうど、1名空きがある」と笑顔で応えてくれた
受付嬢が私の車のナンバーを見て、私も札幌出身だと話し、会話がすこし弾んだ



この待機場所から工場見学(有料:500円)が始まる



案内の女性スタッフ(清楚で美人)



工場見学はいくつか経験をしてきているが、よく考えられた内容になっている






この木樽はシングルモルト専用とのこと



この場所で瓶詰めが行われる



熟成過程






世界最高賞を受賞した「富士30年」 26万円(試飲15mℓ 5,000円)



蒸溜所限定のウイスキーを購入(4,000円弱)


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2024秋 放浪の旅(7日目)長野県・山梨県

2024年09月28日 | 旅日記
訪問日 令和5年9月28日

道の駅「信州蔦木宿」(長野県諏訪郡富士見町落合1984番地)
長野県と山梨県の県境近くにある道の駅
朝起きて車の周囲を見ると、いつの間にか満車状態になっていた



この道の駅は温泉施設が併設されていて、車中泊を楽しむ者にとってとても便利である
ナンバーを見ると全国各地から集まってきている感じがする



サントリー白州蒸溜所(山梨県北杜市白州町鳥原2913-1)
前日に白州蒸留所のホームページを見ていると1名だけ空きがあり申し込むことができた
工場見学は過去に経験もあるので、今回のショップと博物館だけで十分満足している



申し込みは11時30分からということもあり
ネットで大谷の活躍を観戦、母校バレー部の試合観戦、JRA馬券購入とゆっくり過ごすことができた



リニューアルしたショップや試飲会場も心ときめくという感じではなかった



こちらはウイスキー博物館



白州25年(希望小売価格: 360,000円)



これだけの種類の白州が出ているとは知らなかった



ミニボトルもこれだけの種類が集まれば圧巻



今回、ショップで購入したのは蒸溜所限定180mℓ ボトル(4,000円弱)



七賢<山梨銘醸株式会社>(山梨県北杜市白州町台ヶ原2283)
昨夜、大信州という日本酒を購入したことを発信したところ、北杜市に「七賢」があるので……



何故か、行かなければならないという感じになり、立ち寄ってみた
明治天皇もお立ち寄りになったという由緒ある酒蔵ということを初めて知った



七賢という名が、竹林で酒を酌み交わし、琴を弾きながら清談に明け暮れたといわれる7人の隠者(竹林の七賢人)からとったとは知らなかった



ショップの店員の説明を参考に左右の2酒を購入
中央は今晩お世話になる道の駅で購入



武田八幡宮(山梨県韮崎市神山町北宮地1185)
山梨県といえば武田信玄の名が浮かんでくる
この神社も武田信玄公が再建したものである



「二の石造鳥居」がかなり小さい



階段の上に見えるのは神楽殿か



本殿(重要文化財)



武田神社(山梨県甲府市古府中町2611)



この写真からは参拝者が少ない感じがするが、実際はかなり多く拝殿前に列ができるほどである






本殿には、祭神の武田信玄公が祀られている



甲斐善光寺(山梨県甲府市善光寺3丁目36-1)
甲斐善光寺は永禄元年(1558年)、甲斐国国主武田信玄によって創建された

山門(重要文化財)



仁王像
かなり苦労して仁王像を撮っていると、熟女3名に写真を撮って欲しいと声を掛けられた
短い時間だったが久し振りに会話をした






本堂(重要文化財)



雨予報もあったが無事一日を過ごすことができた


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2024秋 放浪の旅(6日目)長野県

2024年09月27日 | 旅日記
訪問日 令和5年9月27日

道の駅「あおき」(長野県小県郡青木村村松25-1)
この道の駅も三度ほど利用させてもらっている
車中泊車も5台ほどで不安になるほど静かな夜を過ごした



朝6時過ぎ、洗顔に向かうと10名ほどの人がベンチに座っている
時間経過とともに列が長くなり、道の駅にあるショップの開店を待っていることを知る
お目当ての品は「マツタケ」にようで、9時の開店と同時に売り切れた感じであった



仁科神明宮(長野県大町市社宮本1159)
昨日、訪問候補地に入れていた神社である
途中、中央線をはみ出してきた大型車と接触するところだった愛車も入れた



ここには国宝の社殿がある
駐車場のナンバーを見ても遠くから訪れている人も多い感じがする



家族や友人知人の健康と旅の安全を祈願



本殿(国宝)
日本最古の神明造
神明造の建築物としては、わが国で唯一の国宝



主祭神: 天照皇大神






大王わさび農場(長野県安曇野市穂高3640)
ここも人気のスポットで、第1駐車場はすでに満車であった
日本最大のわさび生産地だが周辺の景色も美しい



この水車は映画のロケ地でも使われた
ゴムボートによる観光も楽しむことができる



この黒いシートの下に清流が流れ……



わさびが栽培されている



ショップに立ち寄ったが、容量が減り、価格が倍近くになっている



次に国宝の松本城に向かったが、駐車場を探すことができず断念

大信州酒造(長野県松本市島立2380)
最近、日本酒を購入する機会が増えた
口コミでショップの店員の対応がいいとのことだったので立ち寄った



「大信州酒造株式会社」



こちらがショップになる
ドアを開けた瞬間、口コミ通りだと確信した



お酒についての説明が上手で、つい手が伸びてしまう



今回、購入した3本
左右は3日前に販売されたもの、中央はお勧めの酒とのこと



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2024秋 放浪の旅(5日目)長野県

2024年09月26日 | 旅日記
訪問日 令和5年9月26日

道の駅「オアシスおぶせ」(長野県上高井郡小布施町大島601)
着いて駐車場から道の駅の建物まで遠かったことを思い出した
昨日のことも思い出せないのに、7年前のことなど思い出せるはずもない



長野県に入って驚いたのはガソリン価格が高いということ
隣の新潟県で1ℓ 159円から175円だったのが、長野県では182円から187円になっていた



一乗山 大法寺(長野県小県郡青木村当郷2052)
旅の疲れも出てきているので、訪れたことのある場所を選択した
60kmほど走ったが、所々渋滞もあり、思ったより時間がかかった
この寺は3度目になる



観音堂内の厨子は重要文化財



石造りの観音様が美しい



三重塔(国宝)
久し振りのこの塔を見たいと思った
午後は逆光になるので午前中が綺麗に撮れると、以前、寺の方に教えてもらっていた



正慶2年(1333年)の建立



崇福山 安楽寺(長野県上田市別所温泉2361)
ここも3度目になるが、一度目は拝観時間に間に合わず頼んだが駄目であった
振り返ればいろいろ思い出があるものだ



境内は曹洞宗寺院らしく整備されていて気持ちがいい



経堂内部の天井画の方に目がいく



重要文化財の二体の像だが、天気が良すぎて日差しがガラスに反射して、私の姿の方が目立つ



私の幅のある体で日差しを遮り撮ってみた(頭と体は使う物だ<笑>)



八角三重塔(国宝)
もちろん、ここを訪れたのはこの国宝の塔を観るため
写真を見て分かるようにお墓の中に建っている



四重に見えるが、一番下は「裳階」になる
この塔の形は大変珍しい






生島足島神社(長野県上田市下之郷中池西701)
日差しが強すぎて、持っているカメラもかなり熱をもってきている
ファインダーを見ても被写体が見えないほどだ



御神橋



御本社(上宮)
生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、
生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られている



磐座



神池









諏訪神社(下宮)



信濃国分寺(長野県上田市大字国分1049)
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、信濃国国分寺の後継寺院



三重塔(重要文化財)
高さ20.1m 源頼朝の発願と伝える



今日は塔巡りを考え行動した
もう一つ、予定していたが体力が続かなかった






本堂の彫刻



堂内の様子



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2024秋 放浪の旅(4日目)新潟県・長野県

2024年09月25日 | 旅日記
訪問日 令和5年9月25日

道の駅「ながおか花火館」(新潟県長岡市喜多町707)
とても過ごしやすい道の駅で何度か利用させてもらっている
朝の7時で雲一つ無い青い空



訪問先に長岡市にある神社を考えていたが、あまりの天気の良さに考えが変わった
YouTubeで見た景色が頭に浮かびそこに向かう計画を立てた



一昨日からポータブルバッテリーのトラブルが続き、メーカーとの連絡もつき、現地から送ることになっていた
最後の悪あがきで、ボタンを押すと何とACの出力が復活した
「馬鹿野郎」と怒鳴ったのが届いたのかも(笑)



清津峡渓谷トンネル(新潟県十日町市小出)
いつもより早い、8時過ぎに道の駅を出た
一般道で80km弱の距離を快適に走る
一番近い駐車場に駐めることができた(運が向いてきている)



このトンネルは有料で「入坑料1000円」
長さは片道750mで緩い坂になっている



途中、このような景色を数カ所楽しむことができる



中央にあるのは「トイレ」
入ってみたが普通の綺麗なトイレだった



テーブルが数個置かれているのが面白い効果をだしている



最後はこの景色になる
湧き水の上を歩き中央でポーズ(この女性は長身でモデルのような人だった)



何組かに声を掛け写真を撮ってあげたが、ここはカップルだと楽しいと思う



同じ市内にある、現代美術館に向かう予定であったが、残念ながら休館日
予定を変更して長野県に向かうことにした

浄瑠璃山 浄光寺(長野県上高井郡小布施町雁田676)
この寺は今回が3度目になる
前回がいつだったかは記憶にない



仁王像シリーズを発信しているが、この像の記憶が全くない



左右の像が明らかに違っているのは素人目でも分かる
作者が違うようだ



階段の石は「自然石」で昔から変わっていないそうだ



薬師堂(重要文化財)
旧国宝で、2008年に建立満600年を迎えた



堂内の様子



自然の景色も美しいが、やはり寺社巡りは楽しい



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2024秋 放浪の旅(3日目)新潟県

2024年09月24日 | 旅日記
訪問日 令和5年9月24日

道の駅「たがみ」(新潟県南蒲原郡田上町大字原ヶ崎新田)
三連休最後の日ということもあり、遅くまで賑わっていた



竹でできた巨大なブランコは子供に大人気だった



こちらも夜遅くまでカップルの姿があり楽しそうだった
そんな中、私の車の中では大きなトラブルが発生していた
ポータブルバッテリーのAC出力のみが作動しなくなったのだ
昼からサポートセンターに連絡をとっているが、混み合っているとのことで、つながらない



雲高山 国上寺(新潟県燕市国上1407)
和銅2年(709年)泰澄によって開山された古刹である



堂内の様子



ところが、本堂の壁面に描かれた「イケメン官能絵巻」が話題を呼んだ
いわゆるSNSで炎上したのである






方丈講堂前には、風鈴と風車が



観音像の周りを3周すると幸運に巡りあえるとの記載があり
三人の女性が「まだ、遅くない」と笑顔で歩き出した



このことからも由緒ある寺だということが理解できる






良寛和尚もこの寺で修行した









金峯(きんぷ)神社(新潟県長岡市西蔵王2丁目6-19)
和銅2年(709年)元明天皇の勅願により北国鎮護のため大和国吉野山の蔵王権現を分霊して古志郡楡原の地に創建されたという
廃仏毀釈までの別当寺は安禅寺(金峰山静観院)



こちらも参道は風鈴と風車で飾られている
日中は30℃をこえる暑さで風鈴の音が涼やかに聞こえる









山本五十六記念館・生家(新潟県長岡市呉服町1丁目4-1)
この日の最後は「山本五十六記念館」となった
「河井継之助」に関する本で、山本五十六が影響を受けていることを知った



山本五十六がアメリカ軍の飛行機に撃墜された機体の一部が展示されてあった
展示物の中に
「私は河井継之助が小千谷談判に赴き、天下和平を談笑のうちに決しようとした、あの精神をもって使命に従う。
軍縮は世界平和、日本の安全のため、必ず成立させねばならぬ」との文言があった



山本五十六の生家



二畳の勉強部屋





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2024秋 放浪の旅(2日目)新潟県

2024年09月23日 | 旅日記
訪問日 令和5年9月23日

道の駅「あがの」(新潟県阿賀野市窪川原553-2)
車中泊初日の昨夜は電力消費を考え、10時に消灯
車内も暑くなかなか寝付けなかった



朝7時頃から強い雨が降り始めて止む気配がない
天気予報を確認すると9時過ぎには晴れてくるということで、本日の訪問予定地を考えることに



道の駅に置かれた地元の観光パンフレットを参考に訪問先を選択した
12年も一緒に私の足となって走ってくれる愛車のハイエース



水原(すいばら)代官所(新潟県阿賀野市外城町10)
テレビなどで知る「お代官様」は悪者というイメージがあるが、その仕組みなどを理解していなかったので学ぶ機会を得た
水原代官所は、江戸幕府直轄領で123年の歴史をもつ(当時の資料にて復元)



時代劇の代官所といえば、罪のない人を陥れ



拷問に掛け裁くというイメージだが
代官所の仕組みについては、これから調べて発信したい



名代官により、学問が奨励され「温古堂」が開設された



映画のロケ地にもなっていたようである



外に出ると、いつの間に青空になっていた



旦飯野(あさいいの)神社(新潟県阿賀野市宮下968)
創建が、御宇元年(391年)という古社である
日出ずるところ、始まりのときを意味する「旦(あさ)」
眼下に広がる豊かな、越後平野を現す「飯野(いいの)」が社号になっている



神門
神門の彫刻は十一支で、何故か一つ彫られていない






階段横の苔



鳥居



拝殿内では宮司が祈祷の準備をしている



御神霊石



旦飯野神社御神田 令和6年の「初穂」を記念にいただいてきた



五頭山 華報寺(新潟県阿賀野市出湯794)
大同元年(806年)弘法大師空海によって開山された
当地には空海が発見したという「出湯温泉」がある



本堂内の仏像



光明殿の仏像



空海縁の「共同浴場(250円)」が本堂横にあった
少し早いが入浴、ぬるめの湯は好みだが浴槽のみというのは初めての経験
硫黄臭が加齢臭を消してくれる



寺社山 福隆寺(新潟県阿賀野市寺社甲1853)
お堂の扉は閉められていて外観のみ









臨沢山 観音寺(新潟県阿賀野市草水751)
こちらも同様外観のみ



石に刻まれた仏像に何故か魅力を感じる



鐘楼門



本堂






天気にも恵まれ、本日予定した全てを巡ることができた
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2024秋 放浪の旅(1日目)新潟県

2024年09月22日 | 旅日記
訪問日 令和5年9月21・22日

小樽港フェリーターミナル
台風の状況を天気図にて確認しチケットを購入
素人の判断とは違い、急に右折し日本列島の日本海側を直撃する大雨になった



午後5時発の「新潟港」行きのフェリーに乗船
定刻に小樽港を出発、穏やかな波で快適な船旅であった



天気が悪くなるとデッキに出ることが出来なくなる



乗船の際にもフルート演奏で迎えられたが、午後7時30分から2度目の演奏会が催された



クラシックから歌謡曲まで幅広い層に受け入れられる内容であった
清楚で美しい女性で「天は二物を与えた」
下船の際も笑顔でお見送りしてもらった



これが予約した一番安価なベッド



消灯直前にベッドに潜り込むだけなので、これで十分



新潟港に着岸してから1時間近く待たされた
通路まで車で一杯になっている光景は久し振りだ



船内から出ると予報通りのどしゃ降りの雨
一番近い道の駅「新潟ふるさと村」に避難する
外にも出ることが出来ず、珈琲を飲みながら車内でのんびりと過ごす



昼過ぎになると、空が少し明るくなり小雨になった
インスタでメッセージをいただいている人からこれからの予定は……
それに応えなければと、車を走らせた

新潟総鎮守白山神社
千有余年の歴史のある神社らしいが、訪れたのは初めてである



神社には参拝者用の無料駐車場があったが場所が分からず近くの白山公園駐車場へ



狛犬



随神門



手水舎
手水鉢の花が美しい



拝殿



拝殿内部



「月詣御朱印」(初めて見た)



風があったらカラカラと回るのだろう(想像するだけで楽しい)



昼間でもスポットライトによりキラキラ光るようになっている
この風車、かなり高級感がある
最近の神社は(経営ということもあると思うが)工夫が素晴らしい



本殿



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国宝の城(現存12天守:国宝五城)

2024年09月20日 | 
国宝の城(現存12天守:国宝五城)
長野県(松本城<烏城>)
愛知県(犬山城<白帝城><追加>
滋賀県(彦根城<金亀城>)
兵庫県(姫路城<白鷺城>)
島根県(松江城<千鳥城><追加>

01 松本城(長野県松本市丸の内)
永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まり
後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく
武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し「松本城」に改名した



天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政に代わりに石川数正が入城
石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う



現存する天守を築造したのは石川康長で、文禄2~3(1593~4)年頃
別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている



月見櫓の様子






<一部追加>
02 犬山城(愛知県犬山市大字犬山北古券)
木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。別名の白帝城



明元年(1469年) 応仁の乱の最中に 岩倉織田氏当主の織田敏広の弟・織田広近がこの地に砦を築いたのが始まり
天文6年(1537年) 清洲三奉行の織田信秀の弟・織田信康は居城の木ノ下城を廃し、現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移った



天守は現存する日本最古の様式



現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した元和3年(1617年)ごろである
平成16年(2004年)3月末日までは日本で唯一の個人所有の城であった



この写真を撮影したのは平成15年11月で、城の持ち主は確か犬山市長の娘さんだったと記憶している












03 彦根城(滋賀県彦根市金亀町)
滋賀県彦根市にある彦根山に、井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)
山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう



井伊直政は、関ヶ原の戦いの後、その軍功により佐和山城に入城したが三成の居城であったことを嫌ったという
直政は、関ヶ原の戦傷が癒えず、慶長7年(1602年)に死去
直政の遺志を継ぎ、慶長8年(1603年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した



明治に入り、各地の城は廃城令で破壊・売却されていった



彦根城の天守閣は明治元年に700円で落札され解体される寸前であった
明治天皇が巡幸で彦根を通過した折、城の保存を命じたため破却を逃れたという






04 姫路城<白鷺城>(兵庫県姫路市本町)
姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城



姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力



関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された



明治時代には維新の初期に払い下げが行われ、百円で落札されたが、取り壊し費用が莫大であったことから落札者が願い下げした



国宝の大天守は外から眺めると5階建てに見えるが、内部の造りは地上6階、地下1階の7階構成になっている






<一部追加>
05 松江城<千鳥城>( 島根県松江市殿町)
亀田山に慶長12年(1607年)から5年の歳月をかけ築城



慶長16年(1611年)に竣工。完成数カ月前に堀尾吉晴公死去(69歳)
孫の三之助(忠晴)(13歳)が城主となる






廃城令により、松江城諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることとし、ことごとく取り壊された
天守閣は180円で落札されたが、出東村の勝部本右衛門、高城権八らにより資金を調達、買い戻され取り壊しは中止、保存されることとなった



松江のシンボル松江城は、全国で現存する12天守のうちのひとつで、唯一の正統天守閣ともいわれている



人柱伝説:
天守台の石垣が何度も崩れ落ち、人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から出た
そこで、盆踊りを開催し、最も美しく、踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという
石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった
人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置された
その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る
また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった



石垣積は、築城工事にあたって、全体の半分以上の労力を要した
松江城は5年間で完成したが、そのうちの3年間を石垣に費やされた



いくつかの城巡りをしているが、石垣の除草作業を目にするのは初めてである
綺麗な石垣を維持管理していくには、かなり危険で地道な手作業が必要ということを知った












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シリーズ塔(中国・四国地方)6-2<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2024年09月19日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔(中国・四国地方)6-2<三重塔・五重塔・多宝塔他>
岡山県(本山寺、国分寺、宝福禅寺、遍照院、長福寺<追加>、西大寺、福生寺<追加>
山口県(瑠璃光寺)
徳島県(霊山寺)
香川県(志度寺、善通寺)
愛媛県(石手寺)
高知県(竹林寺)

34 岡山県
34-01 岩間山 本山寺(岡山県久米郡美咲町定宗)
三重塔(重要文化財)



江戸時代初期の承応元年(1652年)津山藩主森忠政によって建造された



檜皮葺で三重塔としては岡山県下最大









34-02 日照山 国分寺<備中国分寺跡>(岡山県総社市上林)
五重塔(重要文化財)






岡山県内唯一の五重塔



南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定高さ50m)を焼失したのち、1821年(文政4年)に位置を変えて再建
弘化元年(1844年)ごろに完成、高さは34.32m



この塔は、 屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさの細長い造りで相輪も短い



当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更したとされ、3層まではケヤキ材、4・5層まではマツ材が主体






34-03 井山 宝福禅寺(岡山県総社市井尻野)
三重塔(重要文化財)
総高18.47m
寺伝によれば弘長2年(1262年)鎌倉幕府の執権・北条時頼が寄進して建立したといわれていた



しかし、昭和42年(1967年)に行った解体修理の際、永和2年(1376年)の墨書銘が発見
実際にはもう少し時代が下った南北朝時代の建築であることが確認された















34-04 神遊山 神宮寺 遍照院(岡山県倉敷市西阿知町)
三重塔(重要文化財)
開山智空上人が寛和元年(985年)に創立後、応永23年(1416年)に智海僧正が再建したものである



建物は和様形式を主体とした方三間(=四方三間)本瓦葺きで屋根の相輪は青銅製
柱は総て円柱、高さは22.25m



内陣の須弥壇上には、本尊として金剛界の大日如来を祀る
この塔は、大正14年に国宝に指定、制度の改正に伴い、昭和25年に重要文化財に指定された






<追加>
34-05 真木山 長福寺(岡山県美作市真神414)
三重塔(重要文化財)






棟札の銘から鎌倉時代の弘安8年(1285年)に大工棟梁・藤原国右衛門尉によって建立された



昭和26年(1951年)真木山上から現在地に移築された。昭和55年(1980年)保存修理が完了



岡山県最古の木造塔建築物だという



平成27年6月には、杮葺きの屋根が葺き替えられた



「うまく撮れますか」と塔の近くに住むという男性に声を掛けられた
幼い頃、祖父から、真木山上から解体された木材を手で運んだということを聞かされていたそうだ
平成27年6月、杮葺きの屋根が葺き替えられた際には、近くで進捗状況をスマホで撮り、記録していたと話してくれた






34-06 金陵山 西大寺(岡山県岡山市東区西大寺中三丁目8番8号)
三重塔(岡山県指定文化財)



延宝6年(1678年)の建立
塔身と相輪とのバランスもよく、和様を基調としながら一部に禅宗様を取り入れている



「胎蔵界大日如来」を安置している









<追加>
34-07 大滝山 福生寺(岡山県備前市大内999)
三重塔(重要文化財)
山の尾根にぽつんと建っている塔は私の経験では初めてだ






寺伝では嘉吉元年(1441年)室町幕府6代将軍 足利義教の命によって建立された



塔周辺は狭くて足場も悪く、油断すると崖から落下する恐れもある
塔全体を撮るために、瓦礫が積まれている場所によじ登る



国宝・重要文化財の塔巡りは私の旅の大きな目的の一つ
今回の旅で新たに一つ加わった
写真から塔周辺の狭さと危険さを再認識(汗)







35 山口県
35-01 保寧山 瑠璃光寺(山口県山口市香山町)
瑠璃光寺五重塔(国宝)
五重塔は応仁の乱(足利義満との戦い)で亡くなった大内義弘の霊を弔うため、弟の盛見が嘉吉2年(1442年)に建築した
大内文化の最高傑作と称され国宝に指定されている



京都の醍醐寺、奈良の法隆寺、そして山口の瑠璃光寺と、日本三名塔の1つに数えられている















現在、約70年ぶりの檜皮葺屋根葺き替え工事が行われている
次の世代へ引き継ぐための保存修理と、文化財建造物の保存修理を支える伝統技術継承の場ともなっている
このような姿はこの先数十年見ることができないと思うので追加掲載した



令和8年(2026年)3月までが工事期間であるが、それまで元気でいられるかどうか心配だ



36 徳島県
36-01 竺和山 霊山寺(徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻)
<多宝塔>



額には「五智如来」  応永年間(1394年 - 1428年)の建造



五智如来像を安置している



37 香川県
37-01 補陀洛山 志度寺(香川県さぬき市志度1102番地)
五重塔
高さ33m 昭和48年(1973年)から着工され、昭和50年(1975年)5月に落成



地元出身の実業家竹野二郎によって寄進された



本尊:胎蔵大日如来坐像<木造如来形坐像>(香川県指定文化財)



37-02 七宝山 持宝院 本山寺(香川県三豊市豊中町本山甲1445番地)
五重塔(三豊市指定文化財)
明治43年(1910年)再建立。14年間の歳月を経て落慶に至る
礎石から相輪先端までの高さ31.75m









37-03 屏風浦五岳山 誕生院 善通寺 <東院>(香川県善通寺市善通寺町 3-3-1)
五重塔(重要文化財)
基壇から相輪までの高さが約43mの五重塔は、国内の木造塔として3番目の高さを誇る
創建以来いくたびかの倒壊、焼失により再建を繰り返し、現在の五重塔は、4代目となり明治35年(1902年)に完成した



密教思想の中心的存在である五智如来(五仏)が安置されている



一般的な木造多層塔とは異なるふたつの特徴
1 五層、すべての階の天井が高くつくられ、人が立って歩けるようになっている
2 善通寺の五重塔の心柱は、地面(基礎の礎石)から浮いている「懸垂工法」



毎年、ゴールデンウィークには1階と2階の内部が特別公開されている



38 愛媛県
38-01 熊野山 虚空蔵院 石手寺(愛媛県松山市石手2丁目)
三重塔(重要文化財)
鎌倉時代末期の建立。高さは24.1m












39 高知県
39-01 五台山 金色院 竹林寺(高知県高知市五台山)
<五重塔>
もともと三重塔があったが、明治32年の台風で倒壊、昭和55年(1980年)に五重塔として再建された



高さ31.2m、間口4.8m、総檜造。鎌倉時代初期の様式





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シリーズ塔(北陸地方)3<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2024年09月18日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔(北陸地方)3<三重塔・五重塔・多宝塔他>
新潟県(五智国分寺<追加>乙宝寺、酒呑童子神社、本成寺)
富山県(国泰寺、日石寺<追加>
石川県(那谷寺、妙成寺、不動寺 )
福井県(明通寺<追加>、金前寺)

15 新潟県
<追加>
15-01 安国山 五智国分寺(新潟県上越市五智)
三重塔(新潟県指定文化財)


















寛政6年(1794年)の焼失後の安政3年(1856年)に再建を着工
慶応元年(1865年)に棟上がされたが高欄等は未完成である






三重塔周辺の木々が生長し塔全体を撮ることが難しくなっている






15-02 如意山 乙宝寺(新潟県胎内市乙
三重塔(重要文化財)
塔内安置仏は普賢菩薩で、辰年と巳年生まれの守り本尊というから縁を感じる


















15-03 酒呑童子神社(新潟県燕市国上)
<五重塔>
平成9年(1997年)分水町の大工が「趣味」で数年の歳月をかけ手作りで完成したという






15-04 法華宗陣門流総本山 長久山 本成寺(新潟県三条市西本成寺)
多宝塔(三条市指定文化財)



多宝塔は本来、下層部が方形で上層部が円形になっている
この建物は上下層ともに方形



明和7年(1770年)に再興された



16 富山県
16-01 摩頂山 国泰寺(富山県高岡市太田)
<三重塔(利生塔)>
利生塔とは南北朝時代に設定された寺院制度の一つ
元弘以来の争乱による戦没者の弔霊と天下太平を祈願するため、全国に寺院1宇と塔婆1基を建立することが定められた



幕府の要請によって、それらの各国の寺、塔に対してそれぞれ「安国寺」「利生塔」と称することが勅許された



利生塔は68基が設置され、形式は五重塔と三重塔で、仏舎利各2粒が奉納された



<追加>
16-02 大岩山 日石寺(富山県中新川郡上市町大岩163)
三重塔(上市町指定文化財)
富山県内で最も古い木造の三重塔(江戸時代後期)高さ15m
回りに壁が無く、心柱など丸見え状態である



建造時の財政難で省略したためと考えられているが、これがこの塔の特徴となっている
私自身全国の塔巡りをしているが、初体験である









17 石川県
17-01 自生山 那谷寺(石川県小松市那谷町)
三重塔(重要文化財)



堂内には仏像が安置されている
「胎蔵界大日如来」 1338年新田義貞の軍によって焼かれ、白山衆徒の手で火中より運び出された



元は那谷寺根本堂の本尊
昭和16年(1941)に国宝指定を受け、昭和25年(1950)に重要文化財に新指定されたという



寛永19年(1642年)建立
(加賀三代 前田利常公が後水尾帝の勅命により再建)









17-02 金栄山 妙成寺 (石川県羽咋市滝谷町)
五重塔(重要文化財)
底辺4.85m四方、高さ34.27m















17-03 倶利伽羅山 不動寺 山頂本堂(石川県河北郡津幡町倶利伽羅)
<五重塔>
室生寺の五重塔が屋外に建つ最小の塔と思っていたが高さ8m、室生寺16mのちょうど半分






18 福井県
<一部追加>
18-01 棡山 明通寺(福井県小浜市門前)
三重塔(国宝)















文永7年(1270年)建立 初層平面方三間(4.18m)総高 22.12m、桧皮葺木造三重塔婆
鎌倉建築を代表する建造物









18-02 誓法山 金前寺(福井県敦賀市金ケ崎町1-4)
五重塔
私の大好きな塔だが違和感がある
相輪が無いのだ



平成17年(2005年)の建立
工事費は、平成12年~平成17年の寒修行托鉢による市民の尊い浄財積立金を充当






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シリーズ塔(中部地方)4-2<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2024年09月17日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔(中部地方)4-2<三重塔・五重塔・多宝塔他>
岐阜県(横蔵寺、日吉神社、真禅院<追加>、圓鏡寺、新長谷寺、日龍峰寺、飛騨国分寺)
愛知県(興正寺、龍泉寺、妙厳寺<通称:豊川稲荷>、日泰寺)

21 岐阜県
21-01 両界山 横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原)
三重塔(岐阜県指定文化財)












<一部追加>
21-02 日吉神社(岐阜県安八郡神戸町大字神戸)
三重塔(重要文化財)
現存のこの塔は正世年間1500年の初め、斎藤利綱(春日局の伯父)が再建
約70年後の天正13年(1585年)に稲葉一鉄(春日局の叔父)が修造したもの












相輪頂上までの高さ 24.6m
室町時代後期(1467年 - 1572年)の建立






<一部追加>
21-03 朝倉山 真禅院(岐阜県不破郡垂井町宮代)
三重塔(重要文化財)
寛永19年(1642年)建立
明治初年に南宮神社境内から移築


















草創:天平13年(741年)、寛永19年(1642年)の再建



南宮神社造営文書によると、京都の石材商 久保権兵衛が日本初の請負工事で落成させたという
高さ 25.38m



21-04 池鏡山 圓鏡寺(岐阜県本巣郡北方町北方)
三重塔
平成1年(1989年)の建立






21-05 吉田山 新長谷寺(岐阜県関市長谷寺町)
三重塔(重要文化財)
「境内全域撮影禁止」という珍しい寺



21-06 大日山 日龍峰寺(岐阜県関市下之保)
多宝塔(重要文化財)



室町時代、応仁の乱によって多宝塔を残し堂宇の大半を焼失した
この多宝塔は将軍家建立になる唯一の建造物









21-07 醫王山 飛騨国分寺(岐阜県高山市総和町1-83)
三重塔(岐阜県指定文化財)
天平の大塔の後、斉衡元年(854年)五重塔を再建
寛政3年(1791年)の烈風で吹倒。その後、文政4年(1821年)現在の三重塔が完成した



屋根は柿萱であったが、大正11年(1922年)塚越斧太郎居士の寄進で銅萱に改めた
白木造りの雄姿は山都高山の風物詩になっている



本尊に大日如来を安置し、心柱には仏舎利を納めている



23-1 愛知県
23-01 八事山 興正寺(愛知県名古屋市昭和区八事本町)
五重塔(重要文化財)
東海地区に現存する唯一の木造五重塔



文化5年(1808年)に建立され、高さは30m



初回訪れた時が大雨だったので晴れた日を選んで訪れると様子が変わっていた



釈迦牟尼大仏(平成大仏) 平成26年9月に「国家安穏」の祈りを込めてこの地に安置された









23-02 松洞山 大行院 龍泉寺(名古屋市守山区竜泉寺)
<多宝塔>
大日如来像を祀っていたが長久手合戦の際焼失
慶長3年から復興され、更に明治年間に大修理






23-03 円福山 豊川閣 妙厳寺<通称:豊川稲荷>(愛知県豊川市豊川町)
<三重塔>






23-04 覚王山 日泰寺(愛知県名古屋市千種区法王町)
<五重塔>



塔が好きでたくさんの枚数を撮ってきたが、このように「青空に白い雲」という好条件で撮った記憶がない



1997年(平成9年)完成。高さが30m、中には写経が納められている









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樋口季一郎記念館(北海道石狩市八幡町高岡103-3)

2024年09月16日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年9月13日

樋口季一郎記念館
北海道に住みながら「北海道を救った恩人、樋口季一郎中将」の存在を知ったのは最近になってからだ
YouTubeの「真相深入り虎ノ門ニュース」という番組内で、ジャーナリスト井上和彦氏の説明を聴いて驚いた
しかも、その記念館が私の住む、北海道石狩市にあるという



館長の江崎幹夫氏(北海道古民家再生協会理事長)は
「自分の信念を曲げない素晴らしい人道主義者で北海道を救った恩人なのになぜ広く知られていないのか」
そんな思いから、ゆかりの地である北海道に記念館を作った
「旧山谷家」を宿泊施設「古民家の宿Solii」へと生まれ変え、その「石蔵」に資料を展示している



こちらが、一棟貸し切り宿「古民家の宿Solii」



<樋口季一郎 年譜より抜粋>
1888年(明治21年)淡路島の阿万村に生まれる(旧姓奥浜)
1909年(明治42年)5月 陸軍士官学校卒業(21期)
1918年(大正7年)11月 陸軍大学校卒業(30期)
1937年(昭和12年)8月 ハルピン特務機関長
1937年(昭和12年)12月26日~28日 第1回極東ユダヤ人大会開催(ハルビン)
1938年(昭和13年)3月 ユダヤ人難民事件(オトポール事件)
1942年(昭和17年)8月 札幌北部軍司令官
1943年(昭和18年)北方軍司令官、アッツ島玉砕、キスカ島撤退(対アメリカ)
1945年(昭和20年)8月 終戦 18日以降の占守島・樺太防衛戦を指揮
1946年(昭和21年)小樽市外朝里に隠遁<その後、宮崎県、神奈川県、東京都に転居>
1968年(昭和43年)7月 札幌護国神社「アッツ島玉砕雄渾の碑」除幕式・慰霊祭に参列
1970年(昭和45年)10月11日老衰により逝去(享年82歳)



偉大なる人道主義者
樋口は1925年(大正14年)から、ポーランドに駐在武官として赴任。そこでユダヤ人の老人に出会う
老人は、樋口が日本人だと知ると家に招きいれ、ユダヤ人が世界中で迫害されていること、
きっと日本の天皇が、ユダヤ人を救ってくれる救世主になるに違いないと思っていることなどを涙ながらに話した
この時の出会いが、樋口の運命を大きく変えていく



カウフマンとの出会い
1937年(昭和12年)ハルビン特務機関長に着任した樋口のもとをあるユダヤ人が訪れた
アブラハム・カウフマン博士は、ハルビンで病院を経営する内科医で、ハルビン・ユダヤ人協会の会長でもある人物だった
ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を世界に訴えるために、ハルビンで極東ユダヤ人大会開催の許可をもとめてやってきたのだ
ユダヤ人の悲惨な境遇を理解し同情していた樋口はそれを許可した
ユダヤ人の念願だった第1回極東ユダヤ人大会は、1937年(昭和12年)12月26~28日に開催
樋口も出席し祝辞を述べたが、その内容は暗にナチス・ドイツのユダヤ人迫害を批判するものだったため、物議をかもした
日独防共協定が締結されたばかりだったこともあり、ドイツ政府から外務省に抗議文が届いたが、樋口は「だから、どうしろと言うのか」と一蹴した



ユダヤ難民を救おう 樋口の決断
1938年(昭和13年)3月10日、樋口のもとに重大事件の一報がもたらされた
満州国満州里と国境を接した連領オトポールに、ナチスのユダヤ人迫害から逃れてきた約2万人(諸説あり)のユダヤ難民が、吹雪の中で立ち往生しているという
これらのユダヤ人は、満州国に助けを求めるためにシベリア鉄道を貨車で揺られてきたが、満州国が入国を拒否
カウフマンは直ちに樋口のもとを訪れ、食料は既につき、飢餓と寒さのために凍死者が続出し危険な状態にさらされているという同胞の窮状を訴えた

樋口はこの緊急事態に、天皇陛下なら人道主義の道を取るだろうと考えた
保身と怠慢のために、助けを求める多くの人間を見殺しにしたら、それこそ世界に恥をさらす
困っている人を助けることこそ、日本の武士道だ
「カウフマン博士、難民の件は私が引き受けました。博士は難民の受け入れの準備にかかってください。食料と衣服をすぐに」
力強い樋口の言葉にカウフマンは感極まり声を上げて泣いた



樋口ルート
1938年(昭和13年)3月10日、樋口は直ちに満鉄の松岡洋右総裁に電話をかけて緊急の事情を説明し、救援を要請
松岡は直ちに、満州里からハルビンまでの救援列車の出動を命じた
オトポールに接する満州里からハルビンまでは900キロもの距離があり、列車の本数は1日1本だったが、13便の救援列車を出動させたと伝えられている
救出された難民の8割は上海経由でアメリカに渡った
後に建国されたイスラエルへ行った人々、残りの人々は開拓難民としてハルビンの奥地に入植したと伝えられている
ユダヤ難民たちは、その後もこのルートを使ってハルビンを経て上海などへと逃げることができたため、「樋口ルート」と呼ばれている



ヒトラーからの恫喝 関東軍の査問
オトポール事件が解決して2週間後、ユダヤ難民保護に対してドイツから強い抗議文が外務省に届いた
この抗議文は、陸軍省をも動揺させ、その日のうちに関東軍から出頭命令が樋口に通達。翌朝、樋口は関東軍のある新京へ到着した
樋口に対する査問は関東軍の実権を握っていた東条英機参謀長によって行われた
樋口は「日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道にそむくものであると言わねばならないでしょう。
日本はドイツの属国ではないし、満州国もまた、日本の属国ではないと信じています。
東條参謀長、あなたはどのようにお考えになりますか。ヒトラーの お先棒をかついで 、弱い者いじめをすることを 、正しいとお思いになりますか 」
東条の顔を正面からみすえながらこう言った
さすがの東条も一言も返す言葉がなく。「樋口君、よくわかった。あなたの話はもっともである。ちゃんと筋が通っている。私からも中央に対し、この問題は不問に付すように伝えておこう。ごくろうでした」と
東条は後年、敗戦の直接の責任者として、あらゆる弾劾をうけ、極東軍事法廷で裁かれる身となるが、樋口の行為を正常と判断する、冷静な良識を持って事件を処理した



アッツ島とキスカ島の戦い
アッツ島(熱田島)とキスカ島(鳴神島)はアメリカアラスカ州アリューシャン列島に位置し、北方地域における日米を結ぶ中継地点で、戦況を左右する重要拠点となりうる地域であった
この島を大本営はミッドウエイ海戦の陽動作戦も兼ねて1942年(昭和17年)6月に占領した
アメリカ軍は、潜水艦や爆撃機を投入し15,000名が1943年(昭和18年)5月12日 アッツ島(熱田島)に上陸を開始した
日本軍は守備隊長山崎保代大佐率いる2,600名が迎え撃った
樋口中将は増援部隊を準備したが海軍が船を出さず大本営の中止通告により断腸の思いで断念した
山崎大佐以下守備隊は士気が高く、3日で制圧すると言うアメリカ軍の想定を遥かに超える18日間を戦い抜いて玉砕した
樋口中将はこの18日の戦いで山崎大佐との応援部隊を出す約束を守れなかった苦悩で10gk痩せたと言われている

キスカ島(鳴神島)にはまだ5,800名の将兵が取り残されている
樋口中将はアッツ島は諦めるがキスカ島の将兵は絶対撤退させるとの思いで大本営を承諾させ、実行に移す
1943年(昭和18年)5月27日から作戦が始まり、第一期撤退作戦は潜水艦での撤退であったが損傷、損失が多く断念
第二期撤退作戦は濃霧に紛れて、駆逐艦・巡洋艦10隻で高速、素早く収容し離脱する計画
指揮は木村昌福少将で、7月10日から出撃するも、霧がかからず、反転、幌筵へ帰投した
7月22日再出撃し、7月29日にキスカ湾に突入、樋口中将は収容時間を短縮するために三八式歩兵銃を海に投棄させ身軽に撤退させた
55分で守備隊員5,200名を収容し、幌筵島に無事帰還した
アメリカ軍は日本軍が撤退したことに気が付かず2週間後に34,000名が上陸
霧が晴れて日本軍が全軍撤退した事が判明した。これをアメリカ軍はパーフェクトゲーム、太平洋戦争の奇跡と呼んだ



北海道を守れ 樋口季一郎の英断
1945年(昭和20年)8月8日、漁夫の利を狙うソ連は、日ソ中立条約を一方的に破り、日本に対し宣戦布告をした
スターリンは参戦にあたって、トルーマン米大統領に対し、日本の降伏条件として千島列島全部と留萌と釧路の北海道北半分の占領を要求した
樋口は作戦参謀会議で、ソ連軍兵力を二個師団と判断し、北樺太から南樺太に向かって、南下作戦をとると予想した
対ソ連戦略の研究を積み重ねてきた樋口には、ソ連の手の内はよくわかっていた
樋口は打電した「断固反撃に転じ上陸軍を粉砕せよ」ソ連軍の日本上陸を水際で食い止めなければならない



占守(シュムシュ)島と樺太の戦い
日本軍の占守島と幌延島の総兵力は陸海部隊合わせて32,000名、火砲200門、戦車85輌、艦攻機8機であった
18日午前零時、凄まじい砲弾の炸裂音。これがソ連軍による占守島への上陸作戦の開始だった
やがて凄まじい艦砲射撃とともに18日午前1時過ぎには、ソ連軍の上陸部隊が占守島北端の竹田浜に上陸してきた
激戦の末、21日午前8時にやっと双方は停戦
ソ連軍の損害は戦死行方不明者4,500名、艦隊撃沈14、舟艇20。日本軍の死傷者は600名
樺太でも日本軍はソ連軍の陸海空からの猛攻に耐え続け、南樺太を北海道侵攻の前線基地にしようとするスターリンの作戦を不可能にした



スターリンはトルーマン米大統領に対し、22日、不満ながら北海道占領を断念する旨の回答を送った
ついに樋口は、北海道という本土防衛を戦い抜いたのだった
もし北海道北半の武力占領が実現していたら、ソ連は北海道だけでなくさらに東北地方の占領、首都東京の分割統治まで視野に入れていたと伝えられている
その意味で、占守島と樺太の戦いは、ソ連の果てしない野望を完全に破壊したものといえる



樋口の孫の明治学院大名誉教授 樋口隆一氏の話しによると
祖父にはアッツ島(熱田島)の戦いを玉砕に終わらせ2,600名将兵を死なせた悔いがいつまでもあり
毎朝起きるとアッツ島を描いた絵の前で、戦死した部下の冥福を祈っていたという
その姿を見て、子供心に痛々しく感じていたという



樋口季一郎記念館(登録有形文化財)
令和6年3月に登録された
令和4年10月には、生誕地である淡路島の伊弉諾神宮に銅像が建立された 



「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官 杉原千畝(すぎはらちうね)
彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、
ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られている
杉原千畝が「命のビザ」を発行したのは、樋口季一郎のユダヤ人難民事件(オトポール事件)の2年後である
その時も「東条英機」がかかわっている

杉原千畝記念館にも2014年と2023年に訪れた事がある(2度目は館内撮影禁止になっていた)
初めて訪れたときの館内の様子 →「杉原千畝記念館2014年」

撮影 令和6年9月13日
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シリーズ塔(関西地方)5-3<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2024年09月15日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔(関西地方)5-3<三重塔・五重塔・多宝塔他>
大阪府(叡福寺、慈眼院)
兵庫県(鶴林寺、福祥寺、斑鳩寺、一乗寺<追加>、如意寺、伽耶院、太山寺、石峯寺、
    温泉寺、朝光寺、柏原八幡宮、高源寺<追加>

27 大阪府
27-01 磯長山 叡福寺(大阪府南河内郡太子町太子)
宝塔(重要文化財)
承応元年(1652年)の再建
本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置












27-02 大悲山 願成就寺 慈眼院(大阪府泉佐野市日根野)
多宝塔(国宝)
6つある国宝の多宝塔の一つ









文永8年(1271年)建立
高さ約10mで、屋外にある木造多宝塔で国宝・重要文化財に指定されているものの中では日本最小



石山寺、金剛三昧院の塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとされる
内部には大日如来坐像(大阪府指定有形文化財)を安置




28 兵庫県
28-01 刀田山 鶴林寺(兵庫県加古川市加古川町北在家)
三重塔(兵庫県指定文化財)
室町時代の創建だが、江戸時代に大修理が行われている












28-02 上野山 福祥寺<須磨寺>(兵庫県神戸市須磨区須磨寺町)
<三重塔>
弘法大師1500年御遠忌、当山開創1100年、平敦盛卿800年遠忌を記念して昭和59年に再建された。(旧塔は400年前の文禄大地震の際に倒壊)









28-03 斑鳩山 斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤)
三重塔(重要文化財)
室町時代後期、永禄8年(1565年)赤松政秀によって建立






法隆寺創建から斑鳩寺が法隆寺を経済的に支えてきたと以前 住職から聞いたことがある


















28-04 法華山 一乗寺(兵庫県加西市坂本町)
三重塔(国宝)
承安元年(1171)長吏法印隆西、一和上仁西の勧進により造立



承安4年(1174)額田部武末の屋根瓦寄進によって完成



















一乗寺の魅力はこの三重塔を上から下まで任意の高さから拝観できることだ



高さ21.8mの「相輪」を他ではこのように撮ることはできない






塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きい点が特色である



28-05 比金山 如意寺(兵庫県神戸市西区櫨谷町谷口)
三重塔(重要文化財)
常行堂と対面した三重塔は元和5年(1619)の修理の際に発見された龍車という相輪の刻銘により、
南北朝時代、至徳2年(1385年)に建立されていたことが分かった






本瓦葺、高さ21.33m



純和様の建造物で各層各階にはそれぞれ大日・釈迦・多宝如来を安置して法華教と密教思想の融合を表している









28-06 大谷山 伽耶院(兵庫県三木市志染町)
多宝塔(重要文化財)
正保4年(1647)小倉城主源忠真の寄進により建立






相輪を失っていたが昭和60年に復元



弥勒菩薩を安置






28-07 三身山 太山寺(兵庫県神戸市西区伊川谷町前開)
三重塔(兵庫県指定文化財)
心柱宝珠柱の銘と棟札 から、江戸時代前期の貞享5年(1688) の建立とされる









大日如来像と四天王像安置






28-08 岩嶺山 石峯寺(兵庫県神戸市北区淡河町神影)
三重塔(重要文化財)
室町時代、銅板葺、高さ24.41m






この時代に造られた三重塔のなかでも最も大きい塔の一つと案内板に書かれていた



823年(弘仁14年)、嵯峨天皇の勅願により三重塔を建立したとの伝えもある









28-09 末代山 温泉寺(兵庫県豊岡市城崎町湯島)
多宝塔(豊岡市指定文化財)









28-10 鹿野山 朝光寺(兵庫県加東市畑)
多宝塔(兵庫県指定文化財)












<追加>
28-11 柏原八幡宮(兵庫県丹波市柏原町柏原3625)
三重塔(兵庫県指定文化財)



応仁2年(1469年)に創建されたが、本殿と同様に焼失・再建を繰り返す
現存する塔は江戸時代後期 文化12年(1815年)に彫刻師中井権治が中心となって再建された
三間三重塔婆、本瓦葺、檜皮葺、総高23m



神社に塔が残っている事例は全国で18例のみであり極めて珍しい



<追加>
28-12 瑞巌山 高源寺(兵庫県丹波市青垣町桧倉514)
三重塔(多宝塔)
寛政2年(1790年)頃、弘巌玄猊禅師の建立
中は「輪蔵」という造りで、経典を納めている



周辺を歩いてみたが、塔全体を撮ることができるのは、この場所のみ



正面には三国伝来の印度昆須鳩摩の作と伝えられる開運「毘沙門天」を祀る












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