今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

シリーズ塔(関西地方)5-3<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2024年09月15日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔(関西地方)5-3<三重塔・五重塔・多宝塔他>
大阪府(叡福寺、慈眼院)
兵庫県(鶴林寺、福祥寺、斑鳩寺、一乗寺<追加>、如意寺、伽耶院、太山寺、石峯寺、
    温泉寺、朝光寺、柏原八幡宮、高源寺<追加>

27 大阪府
27-01 磯長山 叡福寺(大阪府南河内郡太子町太子)
宝塔(重要文化財)
承応元年(1652年)の再建
本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置












27-02 大悲山 願成就寺 慈眼院(大阪府泉佐野市日根野)
多宝塔(国宝)
6つある国宝の多宝塔の一つ









文永8年(1271年)建立
高さ約10mで、屋外にある木造多宝塔で国宝・重要文化財に指定されているものの中では日本最小



石山寺、金剛三昧院の塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとされる
内部には大日如来坐像(大阪府指定有形文化財)を安置




28 兵庫県
28-01 刀田山 鶴林寺(兵庫県加古川市加古川町北在家)
三重塔(兵庫県指定文化財)
室町時代の創建だが、江戸時代に大修理が行われている












28-02 上野山 福祥寺<須磨寺>(兵庫県神戸市須磨区須磨寺町)
<三重塔>
弘法大師1500年御遠忌、当山開創1100年、平敦盛卿800年遠忌を記念して昭和59年に再建された。(旧塔は400年前の文禄大地震の際に倒壊)









28-03 斑鳩山 斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤)
三重塔(重要文化財)
室町時代後期、永禄8年(1565年)赤松政秀によって建立






法隆寺創建から斑鳩寺が法隆寺を経済的に支えてきたと以前 住職から聞いたことがある


















28-04 法華山 一乗寺(兵庫県加西市坂本町)
三重塔(国宝)
承安元年(1171)長吏法印隆西、一和上仁西の勧進により造立



承安4年(1174)額田部武末の屋根瓦寄進によって完成



















一乗寺の魅力はこの三重塔を上から下まで任意の高さから拝観できることだ



高さ21.8mの「相輪」を他ではこのように撮ることはできない






塔身部の逓減率(初重から三重に向かって小さくなる率)の大きい点が特色である



28-05 比金山 如意寺(兵庫県神戸市西区櫨谷町谷口)
三重塔(重要文化財)
常行堂と対面した三重塔は元和5年(1619)の修理の際に発見された龍車という相輪の刻銘により、
南北朝時代、至徳2年(1385年)に建立されていたことが分かった






本瓦葺、高さ21.33m



純和様の建造物で各層各階にはそれぞれ大日・釈迦・多宝如来を安置して法華教と密教思想の融合を表している









28-06 大谷山 伽耶院(兵庫県三木市志染町)
多宝塔(重要文化財)
正保4年(1647)小倉城主源忠真の寄進により建立






相輪を失っていたが昭和60年に復元



弥勒菩薩を安置






28-07 三身山 太山寺(兵庫県神戸市西区伊川谷町前開)
三重塔(兵庫県指定文化財)
心柱宝珠柱の銘と棟札 から、江戸時代前期の貞享5年(1688) の建立とされる









大日如来像と四天王像安置






28-08 岩嶺山 石峯寺(兵庫県神戸市北区淡河町神影)
三重塔(重要文化財)
室町時代、銅板葺、高さ24.41m






この時代に造られた三重塔のなかでも最も大きい塔の一つと案内板に書かれていた



823年(弘仁14年)、嵯峨天皇の勅願により三重塔を建立したとの伝えもある









28-09 末代山 温泉寺(兵庫県豊岡市城崎町湯島)
多宝塔(豊岡市指定文化財)









28-10 鹿野山 朝光寺(兵庫県加東市畑)
多宝塔(兵庫県指定文化財)












<追加>
28-11 柏原八幡宮(兵庫県丹波市柏原町柏原3625)
三重塔(兵庫県指定文化財)



応仁2年(1469年)に創建されたが、本殿と同様に焼失・再建を繰り返す
現存する塔は江戸時代後期 文化12年(1815年)に彫刻師中井権治が中心となって再建された
三間三重塔婆、本瓦葺、檜皮葺、総高23m



神社に塔が残っている事例は全国で18例のみであり極めて珍しい



<追加>
28-12 瑞巌山 高源寺(兵庫県丹波市青垣町桧倉514)
三重塔(多宝塔)
寛政2年(1790年)頃、弘巌玄猊禅師の建立
中は「輪蔵」という造りで、経典を納めている



周辺を歩いてみたが、塔全体を撮ることができるのは、この場所のみ



正面には三国伝来の印度昆須鳩摩の作と伝えられる開運「毘沙門天」を祀る












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シリーズ塔(関西地方)5-2<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2024年09月14日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔<三重塔・五重塔・多宝塔他>5-2(関西地方)
京都府(仁和寺、神護寺、清凉寺、円隆寺<追加>、智恩寺、金剛院、淨瑠璃寺、岩船寺、
    海住山寺、東寺、醍醐寺、穴太寺)

26 京都府
26-01 大内山 仁和寺(京都府京都市右京区御室大内)
五重塔(重要文化財)
寛永21年(1644)建立。塔身32.7m、総高36.18m









26-02 高雄山 神護寺(京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町)
<多宝塔>



26-03 五台山 清凉寺(京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)
<多宝塔>



<一部追加>
26-04 慈恵山 円隆寺(京都府舞鶴市引土)
多宝塔(京都府指定文化財)
宝暦元年(1751年)の建立
三間多宝塔、本瓦葺












地元の大工・林田伝之丞房章などの手によるもの
多宝塔の亀腹を瓦葺にするなど独創的な建築として価値が高い



以前訪れた時、周囲の木々の枝が伸びすぎて建物が隠れてしまい、うまく撮ることができなかった
今回は光にも恵まれた感じがする






26-05 天橋山 智恩寺(京都府宮津市字文珠)
多宝塔(重要文化財)



明応9年(1500年)、府中城主 延永修理進が自分の病気全快を感謝し、一の宮の別当大聖院の智海に託して建立寄進したもの









26-06 鹿原山 慈恩寺 金剛院(京都府舞鶴市鹿原)
三重塔(重要文化財)
本尊の波切不動明王の力により白河天皇の病気が平癒されたことを喜び、荒廃していた当山を復興し三重の塔を建立、「慈恩寺」の寺号を下賜された






眞如親王像
平城天皇第3皇子、世の無常を感じ仏門に入り、法名を眞如と称し、弘法大師の十大弟子の一人として仏法の隆盛に尽くした
さらに法を求めて天竺に向かい、途中消息を絶った















26-07 小田原山 法雲院 淨瑠璃寺<九体寺>(京都府木津川市加茂町西小 札場)
三重塔(国宝)
「浄瑠璃寺流記事」によると治承2年(1178年)京都の一条大宮から移建したとある
どこの寺院にあったものかは不明である
浄瑠璃寺に移築された後、初層内部に仏壇を置きその上に薬師如来像(重文、秘仏)が安置された


















26-08 高雄山 岩船寺(京都府木津川市加茂町岩船上ノ門)
三重塔(重要文化財)






三間三重塔婆の本瓦葺、高さは約18mで本堂南側山手の境内阿字池の奥まった高台に東を正面として建つ



寺伝によると「智泉大徳」入滅のあと10年が過ぎて、承和年間(834~847年)に仁明天皇が智泉の遺徳を偲んで宝塔を建立した



承久三年(1221年)の承久の乱で兵火を被った
現存する塔は、室町時代の嘉吉2年(1442年)に建立されたもの






29-09 補陀洛山 海住山寺(京都府木津川市加茂町例幣海住山境外)
五重塔(国宝)
全国に9塔ある国宝の塔の一つ(他は羽黒山、東寺、醍醐寺、法隆寺、興福寺、室生寺、明王院、瑠璃光寺)



鎌倉時代の五重塔の貴重な遺構であり、総高17.7mと、室生寺に次いで小さい



貞慶が舎利を安置するために建立を始め、その没後建保2年(1214)に完成






初層の屋根の下に裳階と呼ぶ庇を設けている
裳階をもつ五重塔としては法隆寺五重塔の例があるが、現存する平安 - 鎌倉時代の五重塔では海住山寺のみである






29-10 東寺<教王護国寺>(京都府京都市南区九条町)
五重塔(国宝)
雷火や不審火で4回焼失、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)建立
高さ54.8m(木造塔としては日本一の高さ)


















29-11 醍醐山 醍醐寺 (京都府京都市伏見区醍醐東大路町22)
五重塔(国宝)



醍醐天皇のご冥福を祈るために、第一皇子・朱雀天皇が承平6年(936年)に着工し
第二皇子・村上天皇の天暦5年(951年)に完成した



高さは約38mで屋根の上の相輪は約13mあり、相輪が塔の三分の一を占め、安定感を与えている



京都府下で最も古い木造建築物



高さ12.8mの相輪



応仁の乱で伽藍はほぼ全焼し、その後も焼失と再建を繰り返しているが、五重塔は創建当時のまま現在に残っている






29-12 菩提山 穴太寺(京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46)
多宝塔(京都府指定文化財)
文化元年(1804年)再建
三間の多宝塔で柱は全て円柱



軒は下重に二軒繁垂木、上重に二軒扇垂木として変化を持たせている



多宝塔を借景として取り入れ、これに合わせて築山を設け、石組みを配している






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シリーズ仁王像(関西地方)5-2

2024年09月13日 | 仁王像
シリーズ仁王像(関西地方)5-2
兵庫県(鶴林寺、斑鳩寺、圓教寺、伽耶院、太山寺、温泉寺、朝光寺、石龕寺、 播州清水寺<追加>

28 兵庫県
28-01 刀田山 鶴林寺(兵庫県加古川市加古川町北在家)






28-02 斑鳩山 斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤)












28-03 書寫山 圓教寺(兵庫県姫路市書写)
姫路市指定文化財



28-04 大谷山 伽耶院(兵庫県三木市志染町大谷)
「行基菩薩作」と伝えられる金剛力士であるが、天正年間秀吉の三木城攻めに際して、頭部及び脚部が焼失






<中門>
持国天・多聞天の二天像(慶安年間の作)を安置






28-05 三身山 太山寺(兵庫県神戸市西区伊川谷町前開)






28-06 末代山 温泉寺(兵庫県豊岡市城崎町湯島)
仁王像(兵庫県指定文化財)






<一部追加>
28-07 鹿野山 朝光寺(兵庫県加東市畑)
仁王像
























28-08 岩屋山 石龕寺(兵庫県丹波市山南町岩屋)
木造金剛力士立像(重要文化財)
慶派の「肥後法橋定慶」によって仁治3年(1242年)に制作された












<追加>
28-09 御嶽山 清水寺<別称:播州清水寺>(兵庫県加東市平木1194)
金剛力士像
金剛力士像は、大正10年(1921年)に奈良の仏師 菅原大三郎が作成(遺作)






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シリーズ仁王像(関西地方)5-1

2024年09月12日 | 仁王像
シリーズ仁王像(関西地方)5-1
三重県(大宝院、正月堂)
滋賀県(西明寺、金剛輪寺、渡岸寺観音堂、浄厳院、櫟野寺、長命寺)
京都府(神護寺、仁和寺、清凉寺、出雲寺、桂林寺、如意寺、萬福寺、醍醐寺、穴太寺、
    観音寺、縁城寺、円隆寺<追加>
大阪府(叡福寺)

24 三重県
24-01 恵日山 観音寺 大宝院(三重県津市大門32番)






24-02 普門山 観菩提寺<正月堂>(三重県伊賀市島ヶ原)
金剛力士像(伊賀市指定文化財)









楼門の本堂側の像(詳細不明)







25 滋賀県
25-01 龍應山 西明寺(滋賀県犬上郡甲良町大字池寺)
二天像<持国天・増長天>(甲良町指定文化財)












25-02 松峯山 金剛輪寺(滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺)
二天像<持国天・増長天>



 
 

25-03 渡岸寺観音堂<向源寺>(長浜市高月町渡岸寺50番地)
木造金剛力士像(滋賀県指定文化財)









25-04 金勝山 浄厳院(滋賀県近江八幡市安土町慈恩寺)












25-05 福生山 自性院 櫟野寺(滋賀県甲賀市甲賀町櫟野)

ガラスの反射で仁王像を撮ることができない
そこで考えたのが雨傘を使うということ



面白い写真ができたと思っている(笑)









25-06 姨綺耶山 長命寺 (滋賀県近江八幡市長命寺町157)
仁王像
外陣の左右に安置







26 京都府
26-01 高雄山 神護寺(京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町)






26-02 大内山 仁和寺(京都府京都市右京区御室大内)
<仁王像>






<唐獅子像>






26-03 五台山 清凉寺(京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)






26-04 護法山 安国院 出雲寺<毘沙門堂>(京都府京都市山科区安朱稲荷山町)






26-05 天香山 桂林寺(京都府舞鶴市紺屋)






一部追加
26-06 宝珠山 如意寺(京都府京丹後市久美浜町)
金剛力士像(久美浜町指定文化財)



大きく撮ってみた。いままであきらめていた網目に対応できているような感じがする



<追加>
鎌倉時代初期の木造金剛力士像
写真では分からないが金網が障害となりなかなかうまく撮ることができず……



苦肉の策だが望遠で撮ることによって金網の存在をぼんやり消すことができた



26-07 黄檗山 萬福寺(京都府宇治市五ヶ庄三番割)
<四天王像>
持国天



増長天



広目天



多聞天



26-08 醍醐山 醍醐寺 (京都府京都市伏見区醍醐東大路町22)
木造金剛力士立像(重要文化財)
もとは南大門に祀られていた尊像






平安後期の長承3年(1134年)に仏師「勢増・仁増」によって造立された






体内の墨書、納札等に南大門から移された経緯などがかかれていた



26-09 菩提山 穴太寺(京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46)
仁王像






金網にレンズを近づけてアップで撮ると障害物の金網が消えた






26-10 補陀洛山 観音寺(京都府福知山市観音寺1067)
金剛力士像(京都府暫定登録文化財)















<追加>
26-11 発信貴山 縁城寺(京都府京丹後市橋木873)
仁王像
本堂の左右には、京仏師「鎌田喜内師」作という大きな仁王像がある
1927年(昭和2年)の北丹後地震で大きな被害を受け、勅使門、仁王門、庫裡が全壊
仁王門の仁王像は本堂に移された



このように何の障害もなく仁王像を間近で拝観できる機会は稀である



いつも仁王像の撮影には障害物で苦労している



自由に撮ることができることは嬉しいが、これはこれで難しい



目線が合うとやはり迫力がある



腕が欠損している場所などを観ると構造なのが分かり面白い



足元なども普段は目にしない場所



<追加>
26-12 慈恵山 円隆寺(京都府舞鶴市引土72)
四天王像が安置されているが、金網が障害になり途中で断念した



隙間からも攻めてはみたが……



27 大阪府
27-01 磯長山 叡福寺(大阪府南河内郡太子町太子)












<二天門>






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大岩山 日石寺(富山県中新川郡上市町大岩163)

2024年09月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

大岩山 日石寺
磨崖仏があるということを知り初めて訪れた
路上駐車で周囲を散策し参道は見つけたが、駐車場の場所が分からずにいた
年齢と体型を考慮されたのか、地元の方から楽に参拝できる駐車場を教えていただいた

さざれ石
さざれ石の中に「真言密宗 大本山 大岩山 日石寺」と書かれた金属が埋め込まれている



手水舎



本堂
数人の参拝者が堂内に入ったので、後で回ることにした






鐘楼



干支の額



多羅葉文殊



八体仏









藤水



不動明王御霊水



大岩の奥山より湧き流れる霊水で、眼病に効くとされ、全国からこの水を汲みに来るという



六本瀧
元来瀧行は日石寺境内近くの千巌渓にて行っていた
行者の安全を確保と、一般参詣者に修行鍛錬を推奨するために、明治元年に境内内に建設した
寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている



六基の龍頭は人間国宝の須賀松園の作
六大(地・水・火・風・空・識)により
六大煩悩(貪・瞋・痴・慢・疑・邪見)を祓い
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にすることが六本の因である



愛染堂



恋愛成就・子孫繁栄・夫婦円満の利益がある



堂内の様子



「木造愛染明王」



絵馬掛け



夫婦岩
斜面を進むと鳥居と大きな岩が見えてくる



鳥居の額には「夫婦岩」



岩と岩の奥に社が見える



大岩山熊野権現堂



三重塔(上市町指定文化財)
富山県内で最も古い木造の三重塔(江戸時代後期)高さ15m
回りに壁が無く、心柱など丸見え状態である



建造時の財政難で省略したためと考えられているが、これがこの塔の特徴となっている
私自身全国の塔巡りをしているが、初体験である






塔周辺の場所が狭く、塔全体を撮ることができず同じアングルになってしまった






石仏群



大日堂






これまで歩いていて、この寺を訪れた目的の「磨崖仏」が何処にあるのか探していた
他の参拝者に尋ねても、「初めてなので分からない」と
始めに訪れた本堂に戻ることにした

扁額には山号の「大岩山」



堂内を見た瞬間驚いた
探していた磨崖仏が目の前にあった

大岩日石寺磨崖仏(重要文化財)
この本堂は、摩崖仏の不動王像を囲んで建てられていた



不動明王・二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏



不動明王像の像高は約2.8m



角度を変えて立体感を出してみた






本堂の磨崖仏(重要文化財)拝観後、「古仏堂と大日堂」への案内が目に入った






古仏堂
堂内には50~60cmの仏像が安置されていた
自分好みの仏像を選んでみた






真言宗と真言密宗との違いは分からないが「不動明王」は重要な仏像の一つ



これも魅力的な仏像だ



拡大してみた



説明文が一切ないが、空海像だろうか



「五鈷杵」は密教の重要な法具



一般の方も古仏堂に仏像を預けることができるとHPに記載があった



大日堂



「木造大日如来と真言八祖」が祀られている



真言密教には、密教の正統を示す「付法の八祖」と実在の人物として密教を広めた「伝持の八祖」がある
このお堂では、「伝持(でんじ)の八祖」の「龍猛→龍智→金剛智→不空→善無畏→一行→恵果→空海」を祀る









大日堂から古仏堂を観る



古仏堂で気になった仏像を撮る






これなど妖艶で他の仏像とは一線を画す



本堂に戻る
参拝者が熱心に何かをしているのを遠くから見ていた



若い頃は「貧・困・貪」という生活をしていたが
「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」という仏教用語は恥ずかしながら初めて目にした



人間を悩ませ迷わせて害し、誤りに導く根本的な3種の煩悩(三毒)
これを護摩供で梵焼し清浄なる大欲を成就させるという



本堂内からの眺め



まだ、訪れていない場所がある



多羅葉(タラヨウ)
葉にキズをつけて経文を書いた多羅木に似ていたので名づけられた



観音堂



堂内の様子



観音堂横にある観音像






十二支滝
昭和42年(1967年)の火災後、二度と火災が起こらないように
昭和49年(1974年)に十二支の守り本尊から流れる瀧を配し、寺内安穏を祈願している






この瀧は一般の方や子供も自由に入ることができる



阿覚窟(あがくつ)






巨岩をくり抜いた中に、秘剣大師の石像を祀る



洪水で流された旧八十八箇所霊場の石仏も多数祀られている






「秘剣大師像」は弘法大師が疫病退散の際の姿だと



山門(上市町指定文化財)
参道の百段坂を登る参詣者の健脚に利益がある






仁王像
いつものように隙間にレンズを突っ込んで適当にシャッターを押す



限られた場所で適当に撮っているのだが、時々迫力ある写真を撮ることができる















地蔵堂
駐車場に戻る際に立ち寄った最後のお堂となる



「木造地蔵菩薩(延命地蔵)」を祀る
寿命長寿のご利益があることから延命地蔵と呼ばれている



江戸期に魚津の廻船問屋からの寄贈



地蔵菩薩というと地味な感じというイメージがあったが……
手を合わせると長生きできるような雰囲気を持っている



初めて訪れた日石寺、実に楽しい時間を過ごすことができた
写真を整理しながら調べて行くと抜け落ちている場所が数カ所あった

撮影 令和6年6月4日
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砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>(鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17)

2024年09月10日 | 博物館・美術館・記念館
訪問日 令和6年5月20日

砂の美術館<砂で世界旅行・フランス編>



平成18年(2006年)の開館以来、毎年テーマを替えて開催
2024年 パリオリンピック・パラリンピックが開催されることから、テーマをフランスに選定



総合プロジューサー 茶圓勝彦
砂のプロフェッショナル 12カ国20名の砂像彫刻家による作品



作品01「ノートルダム大聖堂」「小説<ノートルダム・ド・パリ>」
制作者:アンドリウス・ペトクス/リトアニア
    ドナタス・モッカス/リトアニア

入口に入ると、大きな砂像が目に入ってくる
海外旅行の経験はないが、「ノートルダム大聖堂」の名だけは知っている



「我らの貴婦人」を意味し、聖母マリアを讃えるノートルダム大聖堂



1163年から約180年かけて完成した荘厳な大聖堂
ゴシック建築の最高傑作と称されている



18世紀のフランス革命で一部が破壊され、その後荒廃していく
1831年ヴィクトル・ユーゴーが小説「ノートルダム・ド・パリ」を発表すると
大聖堂の価値が見直され、修復が行われた(世界遺産)



ここに展示されている砂像は約3ヶ月の期間を要して制作されている
鳥取砂丘の砂と水だけで圧縮した砂の塊を彫刻して造形している
凝固剤を使用せず、展示が終わると作品を崩してもとの砂に戻し、新たな作品を制作している



砂は常に崩れるリスク、重力とのせめぎ合いといわれている
この高くて細長い塔はどのように制作されたのか、とても興味がある



最後の面は小説「ノートルダム・ド・パリ」を表現している
日本では「ノートルダムのせむし男」の邦題でも知られている
ノートルダム大聖堂のように直立する砂像は制作中に崩れるリスクが伴う
この作品はそれを回避するためにサポートする役割を果たしている



物語だが
ノートルダム大聖堂の前に、一人の醜い赤ん坊が捨てられていた
彼は大聖堂の助祭長、フロロに拾われ、カジモドという名をもらう
彼は成長し、ノートルダムの鐘つきとなる
パリにやって来た美しいジプシーの踊り子エスメラルダに、聖職者であるフロロは心を奪われる
欲情に悩み、ついにはカジモドを使ってエスメラルダを誘拐しようとする



カジモドは捕らえられ、エスメラルダは衛兵フェビュスに恋するようになる
フェビュスとエスメラルダの仲は深まるが、実はフェビュスは婚約者がいる不実な男だった
捕らえられたカジモドは広場でさらし者になるが、ただ一人エスメラルダだけは彼をかばう
カジモドは人間の優しさを生まれて初めて知り、彼女に恋をする
フロロも彼女に想いを募らせるが、エスメラルダの心はフェビュスにある
フロロは逢引をするふたりをつけて行き、フェビュスを刺して逃げる
エスメラルダはフェビュス殺害未遂の濡れ衣を着せられ、魔女裁判の元に死刑が言い渡される



カジモドはエスメラルダを救いノートルダム大聖堂にかくまう
しかし、エスメラルダはカジモドのあまりの醜さにまともに顔を見ることすらできなかった



フロロはパリの暴動の矛先をノートルダム大聖堂に向けさせ、混乱の中エスメラルダを連れ出す
助命と引き換えに愛人になるよう迫るが、彼女はフェビュスを刺したフロロを拒んだ
フロロは彼女を衛兵に引き渡し、エスメラルダは兵士達に捕まり、処刑される



大聖堂の塔の上からそれを見届けるフロロを、カジモドは塔から突き落として殺す
数年後、処刑場を掘り起こすと、白い服装をしていた女性エスメラルダと思われる白骨に、
異様な骨格の男の白骨が寄り添っており、それらを引き離そうとすると、砕けて粉になってしまった






作品02「パリの風景」
制作者:スラヴァ・ボレツキ/ポーランド
街の中心をセーヌ川が流れ、左岸にはドーム屋根の「裁判所」
フランス革命で牢獄とし素養していた「コンシェルジュリー」が見える



手前の橋はナポレオン3世が建造を命じた「シャンジュ橋」



この作品ではパリの風景よりも、この貴婦人に意識が向かってしまう









作品03「建国の王 クローヴィス」
制作者:オスカー・ロドリゲス/スペイン
ゲルマン系の民族であるフランク族を統一し、481年にフランク王国を建国したクローヴィス



ゲルマン民族が信仰していたキリスト教アリウス派から、アタナシウス派(後のカトリック)に改宗した
ローマ教会や貴族たちの後ろ盾を得て勢力を拡大したフランク王国はフランスの国名の由来とされ、歴代の王はクローヴィスから数えられる




作品はクローヴィスが洗礼を受ける様子



作品04 百年戦争
制作者:イリヤ・フィリモンツェフ/ロシア
フランスとイギリスの王位継承問題と領土争いを発端に1339年から1453年まで続いた「百年戦争」



この作品を例に砂像の仕組みについて説明したい
一枚の壁面に彫られているように見えるが実は違っている



上から見るとこのように2つの砂の塊で一つの作品に仕上がっているのだ
しかも、真横から見るとボリューム感などあまりないことが分かる



この立体感は「遠近法と光と影」によって作り出されていると何かで読んだ記憶がある
砂像彫刻家たちは室内灯や自然光を巧みに操り、計算して製作しているという



さて、百年戦争だが前半はイギリスが優勢であったが、1422年フランス王シャルル7世が即位すると形勢逆転し、フランスの勝利で終結した



作品では、兵士の重厚な甲冑



遺体にかけられた布の質感がリアルに造形されている






作品05 ジャンヌ・ダルク
制作者:ヘレナ・バンガード/オランダ
百年戦争の終盤に登場し、フランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルク



信心深い村娘が神のお告げを受け、国王シャルル7世に進言したのは16歳の時だった
そこから一躍、軍を先導し士気を高める戦場のシンボルとして活躍する



砂像では、前景に「オルレアンの戦い」で拠点都市をイギリスから奪還した堂々たる姿が……



後景にはその2年後に異端裁判により火刑に処される姿が……
光と影を対比して構成することで、19年の生涯を劇的に表現している
ジャンヌは死後25年経って名誉復古され、1920年にはカトリック教会の聖人に列聖している



作品06 絶対王制
制作者:ドミトリー・クリメンコ/ロシア
絶対王制は国王が絶対的な権限を持つ政治体制のことで、16~18世紀の西ヨーロッパで成立した



フランスでは「太陽王」と呼ばれ、72年間在位したルイ14世の時代に全盛を極める
「朕は国家なり」という有名な言葉が示すとおり、独断で戦争を繰り返し領土を広げた



パリ郊外に豪華なヴェルサイユ宮殿を建造、王宮を移して貴族や官僚を住まわせ権力の一極集中を図った



晩年は戦費がかさみ財政難に陥った
作品では、貴族たちを世に、彼の黄金期を表現している



作品07 フランス革命
制作者:ミケーラ・チャピーニ/イタリア
18世紀後半に即位したルイ16世の時代には、14世から続き対外戦争の負債を抱え
さらに王妃マリー・アントワネットらの浪費が財政を脅かしていた



国王は財政難を新たな課税で賄おうとしたが国民が反発
国王からの武力弾圧に民衆が蜂起し、1789年フランス革命が勃発した



聖職者や貴族の特権廃止など、国民が自由・平等を求めた戦いの中で王権が停止された
ルイ16世ら王族・貴族は次々と有罪になり、ギロチンにかけられた



作品では、処刑場の革命広場に集まった人々の興奮と革命前の優雅な姿を対比的に表現している



作品08 ヴェルサイユ庭園~バッカスの泉水
制作者:ジル・ハリス/アメリカ
フランス式庭園の最高傑作とされるヴェルサイユ宮殿の広大な庭園には約1400の泉水がある



作品はそのひとつで、ワインを司るローマ神話の神「バッカス」の彫刻を中央に配している






作品09 ヴェルサイユ宮殿
制作者:レオナルド・ウゴリニ/イタリア
    アンゲフォン・ディビッド/ベルギー

ルイ14世によって建造されたバロック建築の最高傑作(写真上段)であり、ブルボン朝の最盛期を物語る宮殿である



宮殿内は王族の居室をはじめ礼拝堂や劇場など700以上の部屋がある



ルイ14世は贅の限りを尽くした宮殿と庭園を庶民にも公開し権力を示した



この宮殿は18世紀以降に建築された世界の宮殿に多くの影響を与えた



作品10 ナポレオンの戴冠式
制作者:ディビッド・ドゥシャーム/カナダ
    スザンヌ・ルセラ/オランダ




この作品はメインステージを飾る最も重要な作品である
砂像も素晴らしく、つい見入ってしまい、重大なミスを犯してしまった



作品の足元に作品の説明や時代背景など解説したものが置かれているのだが、それを撮り忘れてしまったのだ



時代的背景などの解説があるとそれに合わせた写真を選択できるのだが……









戴冠式は、1804年12月にノートル・ダム大聖堂で行なわれた
ナポレオンは、市民に支持されて皇帝になったことを示すため、冠を自分で頭に載せた



作品11 フランス文学~レ・ミレザベル
制作者:マリエレ・ヒーセルス/オランダ
ヴィクトル・ユゴーが1862年に発表した小説「レ・ミレザベル」
主人公は元囚人の男ジャン・バルジャン
社会を恨んでいた彼は無償の愛に触れて改心し、人を助けながら波乱の人生を送る



作品の中央にある小説の表表紙ではヒロインのコゼットが造形されている



右は女中として酷使される幼いコゼットとヴァルジャンが出会うシーン



左は成長したコゼットの恋人マリユスが暴動で重症を負いヴァルジャンに助けられて下水道に逃げたシーン



ヒロインのコゼットの子供時代が本当に可愛く表現されている



成長したコゼットの表情に不安な社会情勢なか、たくましく生きる姿を感じる



作品12 フランスの森
制作者:イネス・ヴァルテーレ/ラトビア
美しく広大なフランスの森はさまざまな豊かな文化を育んできた場所
古来よりおとぎ話や物語の舞台であり、かつては王侯貴族による狩猟の場でもあった



森に生息するシカや熊、猪など動物たちが生き生きと表現されている



遠景には雄大なアルプス山脈、手前には狩りに出かけてきたルイ14世とハンターが彫刻されている






作品13 フランス美術~民衆を導く自由の女神
制作者:トーマス・クォート/アメリカ
19世紀フランスの画家ドラクロワによる、ルーブル美術館所蔵の名画「民衆を導く<自由の女神>」
描かれているのは、1830年にパリで起こった七月革命



ナポレオン失脚後、1814年に復活したブルボン王朝に対する市民革命で「栄光の3日間」と呼ばれる



動乱を生き抜く市民の姿をドラマチックに描いている



革命期に誕生した三色旗と象徴的女性像マリアンヌも登場







作品14 ベル・エポック
制作者:スー・マクグリリュー/アメリカ
19世紀末から1914年第一次世界大戦前のフランスは「ベル・エポック/良き時代」と呼ばれている



エッフェル塔完成や1900年パリ万博に象徴されるように市民生活も豊かになった



美術の世界でも新しい時代を意識した造形が生まれた
ミュシャに代表されるアール・ヌーヴォーが流行したのもこの時期
ミュシャが描いた植物文様で彩られた優雅な女性像は今日まで多くの人を魅了している










作品15 自由フランス
制作者:ギー・オリヴィエ・ドゥヴァ/カナダ
フランスがナチス・ドイツに占領されていた第二次世界大戦中、1940年にロンドンにて亡命政府「自由フランス」が結成される



中心人物のシャルル・ドゴール将軍は、亡命先からラジオを通して国民にレジスタンス(ナチスに対する抵抗運動)を演説した



1944年8月ドイツが撤退した「パリ解放」後、凱旋門前のパレードでは名実ともに救国の英雄として讃えられた






作品16 観光大国フランス
制作者:ベノワ・デュトゥラージュ/フランス
世界で最も外国からの観光客を集めているフランス
豊かな自然と華やかな文化、誰もが知る歴史など魅力は尽きない



作品の中央は巨大な機械仕掛けの象「グラン・エレファント」
左は世界遺産「シュノンソー城」、右はカトリックの修道院「モン・サン・ミシェル」



作品17 フランスのファッション
制作者:チェ・ジフン/韓国
女性がコルセットから解放されたのは20世紀初頭



第二次世界大戦後には、クリスチャン・ディオールによって細く絞ったウエストとフレアスカートが特徴的な「ニュールック」が発表された



時代が求める女性らしいスタイルは平和のシンボルともいわれた



作品18 フランスの食文化
制作者:チェ・ジフン/韓国
世界三大料理にも数えられるフランス料理
フランス革命で宮廷を離れた料理人達が街にレストランを開店、庶民もフランス料理を楽しめられるようになった



屋外の高台から砂丘を眺める



平井信治知事の名言通り「スタバはないがスナバ(砂場)はある」



撮影 令和6年5月20日
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駒形山 妙高寺(新潟県小千谷市大字川井114)

2024年09月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

駒形山 妙高寺
創建は正平年間(1346年~1370年)内ヶ巻城主の田中義房が開基となり、天海が開山
当初は真言宗だったが、文禄3年(1594年)洞照寺の五世果翁良柵が「曹洞宗に改宗」した
大正13年(1924年)火災により本堂、庫裡、山門などが焼失し、現在地に再建した

やすらぎ地蔵
お参りする人全ての、悩み、苦しみが消え、やすらぎが得られますよう願いをこめて建立(高さ6m)



手水舎



ここを訪れるのは初めてで、目的は案内板にある「木造愛染明王坐像(重要文化財)」の拝観であった
ところが、御開帳日が毎月26日との記載があった



本堂



扁額には「愛染殿」



仁王像
堂内に入ると仁王像が安置されていた
畳の上に置かれた仁王像も初めて見た



しかもお神籤が掛けられている(これも初めて)









堂内の様子



本尊:木造愛染明王坐像(重要文化財)
寺伝によれば、もとは伊豆国田中荘の愛染堂に安置され、源頼朝も信仰していたという
その後、田中義房が内ヶ巻城の守護仏として、この地へもたらしたと



本堂からの眺め



整備されていて気持ちがいい



蔵王堂



蔵王権現縁起






蔵王権現は800年前、当地の山を切り開き霊場とする際に現れた
以来、妙高寺の内鎮守として安置された



蔵王堂から本堂を眺める



蔵王堂周辺には岩を多く見かける






石仏群






境内に咲く花



やすらぎ地蔵に手を合わせ駐車場に戻る



平成6年春の旅も妙高寺で終え、新潟港から小樽港航路で戻ることにした

撮影 令和6年6月5日
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船岡山 慈眼寺(新潟県小千谷市平成2丁目3-35)

2024年09月07日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

船岡山 慈眼寺(じげんじ)
作家 司馬遼太郎氏が昭和40年に取材で「慈眼寺」を訪れた時の写真である
学生時代「国盗り物語」を読んだのが初めで大ファンに
今回の旅に出る前に映画「峠 最後のサムライ」を視たのが慈眼寺を訪れるきっかけとなった



これまで持っていた本は全て処分したので、帰宅後に文庫本を購入して読む
若い頃には理解できなかった河井継之助の魅力をこの年齢になって得心した
小説では慈眼寺の歴史的場面は文庫版の「下」の後半数ページに記載がある



河合総督・岩村軍監「会見の間」
慶応4年(1868年)5月2日、戦いを避けるために藩主の嘆願書を持った長岡藩家老・河井継之助が
小千谷に本陣を構える新政府軍(西軍)の軍監、土佐藩士・岩村精一郎と講話談判をおこなった場所



談判は岩村軍監が嘆願書を無視し、長岡藩に降伏を迫ったため決裂し、北越戊辰戦争の発端となった
河井継之助はやむなく戦火を交える事となり、最終的に落城し長岡藩は滅亡する事となった(戊辰戦争)



長岡藩家老「河井継之助」(42歳)



土佐藩士「岩村精一郎」(23歳)



会見の間の額



会見の様子を人形で表現している
河井継之助は上段の間にも入れてもらえなかったとの説明もあった



官軍戦死者 位牌



会見の間に隣接している本堂前の額には山号の「船岡山」



廊下側欄間の彫刻






本堂内の様子






内陣欄間の彫刻









本尊:聖観世音菩薩



慈眼寺拝観は事前予約が必要ということを直前に知り、居多神社駐車場から連絡を取る
廊下に置かれている弥勒菩薩のような対応をしていただき拝観することができた(感謝)



本堂
平成16年(2004年)10月の新潟県中越地震により、会見の間を含む本堂が全壊した
多くの寄付などにより、平成18年(2006年)9月に復旧した



真言宗智山派の寺院
慈眼寺の創建は弘文元年(672年)薩明大徳が開山したのが始まりと伝わっている
当初は船岡山の麓にあり「池源寺」と称し、弥彦明神と神仏習合した後は「魚沼神社」の別当寺として隆盛した



南北朝の争乱による敗北と、戦国時代の兵火により衰退し寛永元年(1624年)に「船岡山観音院慈眼寺」として現在地に再興された






司馬遼太郎 石碑
作家司馬遼太郎は小説「峠」の取材にて昭和四十年八月当慈眼寺を訪れ 左記の一文を残している
河合継之助の風 姿を知らむがため 慈眼寺に来る 山内の蝉声を聞きつつ
昭和四十年八月 司馬遼太郎



司馬遼太郎直筆の一文
戊辰150年を記念して建立



六地蔵



山門(国登録有形文化財)
明治25年(1892年)の造営
入母屋、銅板葺、正面軒唐破風、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門、上層部高欄付き






風神雷神像
山門観音堂側に安置












手水舎



山門正面に観音堂が見える
周辺に遊具があるが、幼稚園が併設されている



船岡観音堂
木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行4間、梁間4間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張



「船岡観世音」の扁額と彫刻






本尊:聖観世音御菩薩



この地を訪れた弘法大師が、衆生済度を念じて、一刀三礼、これを彫刻したものと伝えられている



向拝の彫刻









前述したが、帰宅後に「峠」を再読
地震後、復元された「会見の間」のことを思いつつ余韻を愉しんだ

撮影 令和6年6月5日
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居多神社(新潟県上越市五智6-1-11)

2024年09月06日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

居多神社(こたじんじゃ)
10数年前、五智国分寺を最初に訪れた時、地元の歴史研究家(ボランティアガイド)に案内してもらった場所である

社号標
南北朝時代以降は、守護上杉家からの崇敬を受けて「越後国一宮」に位置づけられたとされる
<越後国の一宮として知られる神社には彌彦神社がある>



親鸞聖人 越後七不思議「片葉の芦」



社号標周辺の芦を確認してみると、片方だけに葉が伸びている
アシは別名:ヨシとも呼ばれている
「悪(あ)し」に通じるのを忌んで、「善(よ)し」にちなんで呼んだものという



さて、越後七不思議の残りは
①逆さ竹 ②焼鮒 ③八房の梅 ④珠数掛桜 ⑤三度栗 ⑥繋ぎ榧



鳥居



正面に社殿が見えてくる



手水



狛犬






拝殿
額には「居多大明神」



拝殿内の様子



創建は不詳であるが
弘仁4年(813年)に「居多神」の神階が無位から従五位下に昇叙
貞観3年(861年)に従四位下に昇叙
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、「居多神社」と記載
承元元年(1207年)に親鸞が越後国府に流罪になった際に居多神社に参詣が記録として残っている






拝殿から鳥居を眺める



居多神社は「気多神」を祀る神社と考えられており、兵庫県北部から新潟県にかけての日本海側に分布する気多神社の一社とされる
明治12年(1879年)に現在地に社殿が造営され遷座したが、明治35年(1902年)に火災で焼失
平成20年(2008年)6月に本社殿が造営されて現在に至っている



祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)
   奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと) - 大国主命の妻
   建御名方命(たけみなかたのみこと) - 大国主命の子



大国主命と奴奈川姫命(祭神像)
大国主命は越後国の沼河姫と結婚しようとして、姫の家へ行って歌(略)を詠んだ
そのとき沼河姫は、戸を閉じたまま、家の中から次の歌(略)で答えた
その夜は会わないで、翌晩会ったという「妻問の歌」の説明板が近くにある



縁結び・子宝祈願の神として信仰されている



親鸞聖人像
境内には、葉が片方にのみ生える芦「片葉の芦」が群生する
伝承では、親鸞が居多神社に参拝して祈願をすると境内の芦が一夜にして片葉になったという



神社に浄土真宗の親鸞聖人像置かれていることは珍しい






撮影 令和6年6月5日
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安国山 華蔵院 五智国分寺(新潟県上越市五智3-20-21)

2024年09月05日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

安国山 華蔵院 五智国分寺
もう何度目になるのか、上越市付近を走ると本来の目的地ではないのだが、つい立ち寄ってしまう
最初に訪れた時の親切なボランティアガイドとの再会を願っているのかも知れない

山門(上越市指定文化財)
聖武天皇の詔により各地に建立された国分寺のうち、「越後国国分寺」の後継寺院にあたる
現在は、天台宗の寺院である



額の「安国山」は山号



仁王像
天保7年(1836年)に名立町出身の長井要壱と弟子2人によって製作
平成6年(1994年)に仁王像が倒壊した為、3年をかけて修復した






芭蕉句碑
元禄2年(1689年)7月8日。『奥の細道』旅中、越後高田の医師細川春庵亭に一泊した折
「薬欄にいづれの花を草枕」
こんなに沢山の花々に囲まれたらどの花の傍で寝たものやら



経蔵(上越市指定文化財)
棟札から元禄6年(1693年)の建立
上越市内で記録の残っている最古の建物
鉄眼版一切経と呼ばれる一大仏教全集が納められている



白山神社神輿殿



本堂
天平年間(740年代)に、聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地は不明だが
永禄5年(1562年)近隣の春日山城主上杉謙信によって、現在の場所に再建された

いつもは閉じられている扉が何と開放されているではないか
初めての事なので駆け寄り堂内に入った



大日如来を中心として薬師如来・宝生如来・阿弥陀如来・釈迦如来の5体の五智如来像が本尊として安置されている
写真のように立ったままでは拝顔できないようになっている

住職と話しをする機会を得た
今日は団体の参拝者が入るため堂内を開けたとのこと



内陣は撮影禁止だが、この撫で仏は許されるであろう






竹之内草庵
承元元年(1207年)専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となった
国分寺住職は、聖人とは比叡山で同学の友で、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結んだ
その草庵は、竹林に囲まれていたので竹之内草庵と呼ばれるようになった



団体の参拝者の為なのか、この建物の戸も開放されていた
遠くから眺めていた親鸞像も近くで拝顔することができた



伝親鸞聖人坐像(上越市指定文化財)
聖人が関東に旅立たれる際、別れを惜しむ同行の心根を思い
国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し刻まれたのが親鸞聖人坐像



親鸞聖人像



親鸞聖人御真筆の「南無阿弥陀仏」の石碑









三重塔(新潟県指定文化財)
上越地方では唯一残る塔
寛政6年(1794年)の焼失後の安政3年(1856年)に再建を着工
慶応元年(1865年)に棟上がされたが高欄等は未完成である






三重塔周辺の木々が生長し塔全体を撮ることが難しくなっている
ここはトイレ周辺からのもの






三体の石仏



六地蔵




親鸞聖人上陸の地
承元元年(1207年)専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となった



階段を上ると、日本海が見えてくる



ここが、上陸の地とされる「居多ケ浜(こたがはま)」
およそ800年前の出来事である



この石段であるが6段になっている
「南無阿弥陀仏」の6文字を意識して造られた(3回唱える)



撮影 令和6年6月5日
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能生白山神社(新潟県糸魚川市大字能生7239)

2024年09月04日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月5日

能生白山神社(のうはくさんじんじゃ)
令和3年6月に重要文化財の社殿があるということで訪れたことがある
この茅葺屋根の建物が「重要文化財の社殿」だと思い込み、夢中で写真を撮っていた

拝殿(糸魚川市指定文化財)
ところが、自宅に戻り写真の整理をしながら歴史などを調べていくうちに間違いに気づいた



しかも、重要文化財の本殿の写真が一枚も撮していなかった
その事が頭の中でモヤモヤしていて、3年後になったが、再訪してみた



歴史を少し
崇神天皇の11年11月初午の日に草創されたと伝えられている
元正天皇の時代には、泰澄大師が深く崇拝し、仏像を安置し、社号を「白山権現」とした
寛弘年間(11世紀初頭)には加賀白山神社より分霊して旧社に合祀した



個人的に茅葺屋根が好きで、その美しさに魅了されている



額には社号の「白山神社」
「能生白山神社」と記載しているが、正式名称は「白山神社」である



拝殿内の額には「白山社」というのもある



拝殿内の様子



遅い時間に訪れたため、本殿の存在を確認するため拝殿周辺を歩く

手水鉢



本殿(重要文化財)
永正12年(1515年)に建造され、室町時代の特色を残す
三間社流造杮葺、正面に一間の向拝を付ける



ここで地元の方に出会い、話しを聞くことができた
この神社は無人で「氏子」がお世話をしているそうだ
この男性も氏子の一人で、戸締まりをするために来たという



話しを聞いた中で記憶に残っているのは
重要文化財の本殿修復後、本殿後ろにある土砂が崩れ本殿が破損したという
(周辺の社業<通称:尾山>は国の天然記念物に指定されている)
重要文化財の修復は国や都道府県から補助金が出るのでいいが……



拝殿裏の見えない部分の茅葺屋根がこのような状態になっている
氏子の数も少なく修復には経済的負担も多く、悩んでいるという



祭神:奴奈川姫命(ヌナカワヒメ)
   <奴奈川姫命は、糸魚川市を中心とする地域一帯で信仰されてきた女神>
   伊佐奈岐命(イザナギ)
   大己貴命=大国主(オオクニヌシ)



秋葉神社









白山トンネル
北陸本線旧線の能生駅 - 筒石駅間の廃線トンネル







「恋する灯台」能生港灯台
国道8号線を走っていると、この赤い橋と島が目に入ってくる
いつかは行ってみたいと考えてはいたが、能生白山神社の近くに駐車場があった



「恋する灯台」の文字は、老人にとってこの先進むには恥ずかしい感じもする



能生港の中央に位置する小さな岩島の上に立つ灯台
陸から赤い橋が架けられている



岩島は「弁天岩」と呼ばれており、海底火山の噴火によって形成された



航路注意としての役割を終えた後も町民の要望で廃止されず、観光資源として再活用されている



灯台の近くには小さな厳島神社(白山神社末社)がある



余談になるが、以前発信した能生白山神社の写真を見て、元同僚が北海道からの旅で訪れた事を知った
彼は美食家で近くの道の駅で日本海のベニズワイガニをたらふく食べたという



道の駅「うみてらす名立」へ移動
夕陽の沈むのを眺めていると、傍に同じ匂いのする男性が来たので話し掛けてみた
これまで全国の山を登ってきたという
今回は、鳥取県の「大山登山」を終え、自宅のある福島県に戻る途中とのこと



話しの中でいつの間にかビールの事が話題になった
ビールの旨みが感じなくなるので、冷やして飲んだことがないと
この後、車内で常温のビールを飲むのが楽しみだと話してくれた



この場所で夕陽を眺めるのは3回目だが、今回は雲が多く一番条件が悪かった
夕陽が沈むと同時に話しも終わり、それぞれの車内へ
私は併設されている温泉へ
夕陽を見終わった時間帯から割引料金になるのも旅の楽しみ方の一つだ



撮影 令和6年6月5日
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小川山 千光寺(富山県魚津市小川寺2934)

2024年09月03日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

小川山 千光寺
初めて訪れる寺は期待が高まるのだが、駐車場に近づいた瞬間(来たことがある)記憶が蘇った
最近、このような事が時々ある

山門
切妻、桟瓦葺き、三間一戸、八脚単層門



山門扁額には「大悲殿」
大悲殿とは聖観音や千手観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物のこと



仁王像












階段を上りきった正面に石仏が見えてくる



石造千手観世音菩薩立像



観音堂
創建は奈良時代の天平18年(746年)に行基菩薩により開かれたのが始まりと伝えられている
往時は16坊を有したが、天文20年(1551年)長尾景虎(上杉謙信)が魚津城を攻めた際に魚津城城主が千光寺に逃げ込んだところを攻撃し13坊が焼失
存続しているのは観音堂のほか、心蓮坊、光学坊、蓮蔵坊の三坊



蟇股の彫刻



金銅千手観世音菩薩立像(富山県指定文化財・秘仏)
大同6年(806年)経田浦で大威徳明王像と共に漁網にかかり、海中から引き上げられ、千光寺に納められたとされる
秘仏で33年毎の開帳であったが、近年は17年目毎に中開帳が行われている



弘法大師一千百回御忌塔
大きな2本の木の中央に石碑のようなものが見える



緑の絨毯に誘われるように塔に近づく



「弘法大師一千百回御忌塔」と刻まれている(千光寺は、真言宗の寺院)



白山社
千光寺に隣接している



観音堂周辺を散策



六地蔵かと思ったが像の部分が無い



近寄ってみると仏さまの様なものが刻まれていた






こちらはの石仏は歴史の流れを感じる



欠落した部分が置かれている



観音堂に戻る
この「観音堂と金銅千手観世音菩薩立像」の管理は心蓮坊・光学坊・蓮蔵坊の3ヵ寺が行っている



石仏の前に手向けられた美しい花
何気ない見慣れた景色だが、日本人の大切な部分をいつも感じている



光学坊
長尾景虎に攻撃を受け13坊が焼失し、存続している観音堂と三坊のうちの一つ



固く閉ざされている門扉






撮影 令和6年6月4日
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大岩山 日石寺 その2(富山県中新川郡上市町大岩163)

2024年09月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

大岩山 日石寺 その2
<前回に続く>
本堂の磨崖仏(重要文化財)拝観後、「古仏堂と大日堂」への案内が目に入った






古仏堂
堂内には50~60cmの仏像が安置されていた
自分好みの仏像を選んでみた






真言宗と真言密宗との違いは分からないが「不動明王」は重要な仏像の一つ



これも魅力的な仏像だ



拡大してみた



説明文が一切ないが、空海像だろうか



「五鈷杵」は密教の重要な法具



一般の方も古仏堂に仏像を預けることができるとHPに記載があった



大日堂



「木造大日如来と真言八祖」が祀られている



真言密教には、密教の正統を示す「付法の八祖」と実在の人物として密教を広めた「伝持の八祖」がある
このお堂では、「伝持(でんじ)の八祖」の「龍猛→龍智→金剛智→不空→善無畏→一行→恵果→空海」を祀る









大日堂から古仏堂を観る



古仏堂で気になった仏像を撮る






これなど妖艶で他の仏像とは一線を画す



本堂に戻る
参拝者が熱心に何かをしているのを遠くから見ていた



若い頃は「貧・困・貪」という生活をしていたが
「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」という仏教用語は恥ずかしながら初めて目にした



人間を悩ませ迷わせて害し、誤りに導く根本的な3種の煩悩(三毒)
これを護摩供で梵焼し清浄なる大欲を成就させるという



本堂内からの眺め



まだ、訪れていない場所がある



多羅葉(タラヨウ)
葉にキズをつけて経文を書いた多羅木に似ていたので名づけられた



観音堂



堂内の様子



観音堂横にある観音像






十二支滝
昭和42年(1967年)の火災後、二度と火災が起こらないように
昭和49年(1974年)に十二支の守り本尊から流れる瀧を配し、寺内安穏を祈願している






この瀧は一般の方や子供も自由に入ることができる



阿覚窟(あがくつ)






巨岩をくり抜いた中に、秘剣大師の石像を祀る



洪水で流された旧八十八箇所霊場の石仏も多数祀られている






「秘剣大師像」は弘法大師が疫病退散の際の姿だと



山門(上市町指定文化財)
参道の百段坂を登る参詣者の健脚に利益がある






仁王像
いつものように隙間にレンズを突っ込んで適当にシャッターを押す



限られた場所で適当に撮っているのだが、時々迫力ある写真を撮ることができる















地蔵堂
駐車場に戻る際に立ち寄った最後のお堂となる



「木造地蔵菩薩(延命地蔵)」を祀る
寿命長寿のご利益があることから延命地蔵と呼ばれている



江戸期に魚津の廻船問屋からの寄贈



地蔵菩薩というと地味な感じというイメージがあったが……
手を合わせると長生きできるような雰囲気を持っている



初めて訪れた日石寺、実に楽しい時間を過ごすことができた
写真を整理しながら調べて行くと抜け落ちている場所が数カ所あった

撮影 令和6年6月4日
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大岩山 日石寺 その1(富山県中新川郡上市町大岩163)

2024年09月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和6年6月4日

大岩山 日石寺
磨崖仏があるということを知り初めて訪れた
路上駐車で周囲を散策し参道は見つけたが、駐車場の場所が分からずにいた
年齢と体型を考慮されたのか、地元の方から楽に参拝できる駐車場を教えていただいた

さざれ石
さざれ石の中に「真言密宗 大本山 大岩山 日石寺」と書かれた金属が埋め込まれている



手水舎



本堂
数人の参拝者が堂内に入ったので、後で回ることにした






鐘楼



干支の額



多羅葉文殊



八体仏









藤水



不動明王御霊水



大岩の奥山より湧き流れる霊水で、眼病に効くとされ、全国からこの水を汲みに来るという



六本瀧
元来瀧行は日石寺境内近くの千巌渓にて行っていた
行者の安全を確保と、一般参詣者に修行鍛錬を推奨するために、明治元年に境内内に建設した
寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている



六基の龍頭は人間国宝の須賀松園の作
六大(地・水・火・風・空・識)により
六大煩悩(貪・瞋・痴・慢・疑・邪見)を祓い
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にすることが六本の因である



愛染堂



恋愛成就・子孫繁栄・夫婦円満の利益がある



堂内の様子



「木造愛染明王」



絵馬掛け



夫婦岩
斜面を進むと鳥居と大きな岩が見えてくる



鳥居の額には「夫婦岩」



岩と岩の奥に社が見える



大岩山熊野権現堂



三重塔(上市町指定文化財)
富山県内で最も古い木造の三重塔(江戸時代後期)高さ15m
回りに壁が無く、心柱など丸見え状態である



建造時の財政難で省略したためと考えられているが、これがこの塔の特徴となっている
私自身全国の塔巡りをしているが、初体験である






塔周辺の場所が狭く、塔全体を撮ることができず同じアングルになってしまった






石仏群



大日堂






これまで歩いていて、この寺を訪れた目的の「磨崖仏」が何処にあるのか探していた
他の参拝者に尋ねても、「初めてなので分からない」と
始めに訪れた本堂に戻ることにした

扁額には山号の「大岩山」



堂内を見た瞬間驚いた
探していた磨崖仏が目の前にあった

大岩日石寺磨崖仏(重要文化財)
この本堂は、摩崖仏の不動王像を囲んで建てられていた



不動明王・二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏



不動明王像の像高は約2.8m



角度を変えて立体感を出してみた






次回に続く

撮影 令和6年6月4日
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