今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

シリーズ塔(中国・四国地方)6-1<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2022年09月27日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔(中国・四国地方)6-1<三重塔・五重塔・多宝塔他>
島根県(清水寺)
広島県(佛通寺、西國寺、浄土寺、厳島神社、耕三寺、向上寺、明王院)

32 島根県
32-01 瑞光山 清水寺(島根県安来市清水町)
三重塔(島根県指定文化財)



戦国期の城郭を思わせる石垣。高さ33.3m












33 広島県
33-01 御許山 佛通寺(広島県三原市高坂町許山)
多宝塔(登録有形文化財)



昭和初期の建築で、軒周辺の材料に反りをもたせせ、整った塔姿が特徴の近代の多宝塔






33-02 摩尼山 西國寺(広島県尾道市西久保町)
三重塔(重要文化財)
永享元年(1429年)室町幕府6代将軍足利義教の寄進により建立された



案内板によると、三間三重塔婆・本瓦葺の記載がある






復古式建築の純和様の重量感ある美しい塔






33-03 転法輪山 大乗院 浄土寺(広島県尾道市東久保町)
多宝塔(国宝)
鎌倉時代末期、嘉暦3年(1328年)建立






 











33-04 厳島神社(広島県廿日市市宮島町)
五重塔(重要文化財)






応永14年(1407)の建立。総高29.3m












多宝塔(重要文化財)






33-05 潮聲山 耕三寺(広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田)
<五重塔(大慈母塔)>
奈良・室生寺五重塔(国宝)を模している












多宝塔(国登録有形文化財)
滋賀県大津(近江)の国宝石山寺の多宝塔を原型としている



塔内には本尊の大日如来坐像を安置



33-06 潮音山 向上寺(広島県尾道市瀬戸田町)
三重塔(国宝)
永亨4年(1432)に建てられ、 国宝の三重塔の中では最も新しい









この塔の特徴は組物に入れられた 装飾彫刻との説明書きがある












33-07 中道山 円光寺 明王院(広島県福山市草戸町1473番地)
五重塔(国宝)
国宝に指定されている五重塔は9基(羽黒山、東寺、醍醐寺、海住山寺、法隆寺、興福寺、室生寺、明王院)
三重塔(13基)、多宝塔(6基)も回っているので、今回の明王院で目標を達成した



貞和4年(1348年)の建立 高さ29.14m
法隆寺・室生寺・醍醐寺・海住山寺に次ぐ5番目の古さを誇り、中世密教寺院における現存唯一の遺例といわれている



相輪の刻銘には、この塔が当時の繁栄した草戸千軒の経済力を背景に、ささやかな民衆の浄財を募って建立されたことが明記されている












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シリーズ仁王像(中国・四国地方)6-2

2022年09月27日 | 仁王像
シリーズ仁王像(中国・四国地方)6-2
香川県(長尾寺、志度寺、屋島寺、讃岐国分寺、善通寺、観音寺、本山寺<追加>
徳島県(霊山寺)
愛媛県(石手寺、太山寺、南光坊<追加>
高知県(岩本寺、竹林寺、国分寺)

35 香川県
<追加>
35-01 補陀洛山 長尾寺(香川県さぬき市長尾西653番地)
仁王像












<追加>
35-02 補陀洛山 志度寺(香川県さぬき市志度1102番地)
木造金剛力士立像(香川県指定文化財)
天正11年(1583年)の春、志度寺に攻めこんだ長宗我部元親を走らせたという山門の仁王像は鎌倉時代「運慶」の作












<追加>
35-03 南面山 屋島寺(香川県高松市屋島東町字屋島峯)
仁王像






作者も年代もわからないが、迫力ある仁王像である












四天王像
持国天像(東)



増長天像(南)



広目天像(西)



多聞天像(北)



<追加>
35-04 白牛山 千手院 国分寺<讃岐国分寺>(香川県高松市国分寺町国分字上所2065番地)
仁王像
寺伝では運慶の子、「湛慶」の作と伝えられている












<追加>
35-05 屏風浦五岳山 誕生院 善通寺 <西院>(香川県善通寺市善通寺町 3-3-1)
仁王像(金剛力士像)






金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370年)の製作












<追加>
35-06 七宝山 観音寺(香川県観音寺市八幡町1丁目2番7号)
仁王像












<追加>
35-07 七宝山 持宝院 本山寺(香川県三豊市豊中町本山甲1445番地)
木造金剛力士立像(香川県指定文化財)













36 徳島県
36-01 竺和山 霊山寺(徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻)









38 愛媛県
38-01 熊野山 虚空蔵院 石手寺(愛媛県松山市石手2丁目)
木像金剛力士立像(愛媛県指定文化財)
湛慶の作と云われている






38-02 瀧雲山 太山寺(愛媛県松山市太山寺町)












<四天王門:四天王>
























<追加>
38-03 別宮山 光明寺 金剛院 南光坊(愛媛県今治市別宮町3-1)
四天王像
四天王は、「天部」に属し、仏教の守護神となる
*持国天/増長天/広目天/多聞天の頭文字をとって「持増広多(じぞうこうた=地蔵買うた)」という語呂合わせがある
 仏教世界を四つに分け、須弥山を中心としてその方角を護る

持国天(東)






増長天(南)






広目天(西)






多聞天(北)






39 高知県
39-01 藤井山 五智院 岩本寺(高知県高岡郡四万十町茂串町)












39-02 五台山 金色院 竹林寺(高知県高知市五台山)












39-03 摩尼山 宝蔵院 国分寺(高知県南国市国分)











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シリーズ塔(関西地方)5-1<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2022年09月27日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔(関西地方)5-1<三重塔・五重塔・多宝塔他>
三重県(大宝院)
滋賀県(西明寺、金剛輪寺、石塔寺<一部追加>、石山寺、常楽寺、園城寺、延暦寺、総見寺、宝厳寺、長命寺<追加>

24 三重県
24-01 恵日山 観音寺 大宝院(三重県津市大門32番)
<五重塔>
平成13年(2001年)三重県下初の木造五重塔が完成






25 滋賀県
25-01 龍應山 西明寺(滋賀県犬上郡甲良町大字池寺)
三重塔(国宝)
総高23.7m 檜皮葺き 鎌倉時代後期の建立で釘が使われていない



相輪は銅製とすることが多いが、本塔は鉄製である









25-02 松峯山 金剛輪寺(滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺)
三重塔(重要文化財)
寺伝では鎌倉時代の寛元4年(1246年)の建立



塔の扉が開かれ、大日如来が安置され拝観することができた



 





<一部追加>
25-03 阿育王山 石塔寺(滋賀県東近江市石塔町)
石造三重塔<伝・阿育王塔>(重要文化財)
奈良時代前期建立。石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大。高さ7.6m



境内には、阿育王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、数万基の石塔や石仏が並ぶ



著名人の感想
司馬 遼太郎 「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、わたしは生涯忘れることができないだろう」
瀬戸内 寂聴 「思わず声をあげた自分に気がつき、雨の降りかかるのも忘れて、塔の方へ駆けよらずにはいられなかった」



<追加>


長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在
五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち
2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山の土中にある」と聞いた



寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた
3年後の寛弘3年(1006年)、播州明石の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏
一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、石塔寺の裏山に大きな塚を発見し阿育王塔が出土した



伝承のうち、「インドの阿育王」云々が後世の仮託で
実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説

写真家土門拳氏によると彼ら亡命者たちは、与えられた異境の山野で開拓に従事した
そして生活も安定したとき、敬虔な仏教徒であった彼らは石塔を造営したのであろうと述べている



25-04 石光山 石山寺(滋賀県大津市石山寺)
多宝塔(国宝)
源頼朝の寄進で建久5年(1194)建立。年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔












現在、国宝に指定されている多宝塔は、石山寺を含め6塔ある
慈眼院(大阪府泉佐野市)、長保寺(和歌山県海南市)、金剛三昧院(和歌山県高野町)、根来寺(和歌山県岩出市)、浄土寺(広島県尾道市)



多宝塔の初重内部は須弥壇を設け、仏像を安置するのが原則で、石山寺多宝塔のように大日如来を本尊として安置する例が多い
快慶作の大日如来像(重要文化財)






25-05 阿星山 常楽寺(滋賀県湖南市西寺)
三重塔(国宝) 
室町時代建立。三間塔婆本瓦葺



塔は本来仏舎利を安置する建物だが、天台宗では法華経を仏舎利の替わりに安置している






ここでは目線の高さで塔を見ることができる







 

25-06 長等山 園城寺<三井寺>(滋賀県大津市園城寺町)
三重塔(重要文化財)
三間三重塔婆 本瓦葺 室町時代



奈良県の比曽寺にあった塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させた



 


25-07 比叡山 延暦寺<横川>(滋賀県大津市坂本本町)
<根本如法塔>









25-08 遠景山 総見寺(滋賀県近江八幡市安土町)
三重塔(重要文化財)
享徳3年(1454年)建立。高さ19.7m












25-09 巌金山 宝厳寺 (滋賀県長浜市早崎町)
三重塔
平成12年5月、当寺では江戸時代初期に焼失したと言われている「三重塔」を、約350年ぶりに復元












<追加>
25-10 姨綺耶山 長命寺 (滋賀県近江八幡市長命寺町157)
三重塔(重要文化財)
高欄擬宝珠銘から慶長2年(1597年)の再建















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シリーズ仁王像(関東地方)2-2

2022年09月24日 | 仁王像
シリーズ仁王像(関東地方)2-2
群馬県(妙義神社)千葉県(新勝寺、龍正院)
東京都(浅草寺、本門寺)
神奈川県(清浄泉寺、總持寺、川崎大師<追加>

10 群馬県
10-01 妙義神社(群馬県富岡市妙義町妙義)
境内は上部の神域と下部の旧寺域に分かれている。総門は、旧白雲山石塔寺の仁王門






11 千葉県
11-01 成田山 新勝寺(千葉県成田市成田)
「密迹金剛(みっしゃくこんごう)」



「那羅延金剛(ならえんこんごう)」



裏には広目天と多聞天の二尊

「広目天」



「多聞天」



11-02 滑河山 龍正院<滑河観音>(千葉県成田市滑川)






13 東京都
13-01 金龍山 浅草寺(東京都台東区浅草)
<二天門>増長天・持国天(慶安時代作・東京都重宝)
増長天



持国天



13-02 長栄山 大国院 本門寺(池上本門寺)(東京都大田区池上)






<本殿内安置>
モデルはアントニオ猪木とか


 



14 神奈川県
14-01 大異山 高徳院 清浄泉寺(神奈川県鎌倉市長谷)
「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として世間から知られる寺院






<追加>





14-02 諸嶽山 總持寺(神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目)
<追加>
金剛力士(仁王)像
元横綱・北の湖の15歳の姿をモデルにしたと伝えられる






14-03 金剛山 金乗院 平間寺<川崎大師>(神奈川県川崎市川崎区大師町)
<追加>
四天王像
京都・東寺の国宝・四天王像を模刻造立
持国天像〔東方〕、増長天像〔南方〕、広目天像〔西方〕、多聞天像〔北方〕












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シリーズ塔(関東地方)2-2<三重塔・五重塔・多宝塔他>

2022年09月24日 | 塔(三重塔・五重塔・多宝塔他)
シリーズ塔(関東地方)2-2<三重塔・五重塔・多宝塔他>
千葉県(新勝寺、福聚院)
東京都(浅草寺、本門寺、寛永寺)
神奈川県(川崎大師<追加>

11 千葉県
00-01 成田山 新勝寺(千葉県成田市成田)
三重塔(重要文化財)











  



<平和の大塔>
1984(昭和59)年に建立された平和の大塔は、真言密教の教えを象徴する総高は58mの塔



根来寺の大塔の大きさに驚いたことがあったが、さらに20mも高い



11-02 天応山 観音教寺 福聚院<芝山仁王尊>(千葉県山武郡芝山町芝山)
三重塔(千葉県指定文化財)












12 東京都
12-01 金龍山 浅草寺(東京都台東区浅草)
<五重塔>






12-02 長栄山 大国院 本門寺(池上本門寺)東京都大田区池上)
宝塔(重要文化財)
日蓮聖人御入滅の折の御荼毘所









円筒形の塔身に宝形屋根を載せた宝塔形式の塔で、内部空間を有するものは他にほとんど類例がないそうだ



五重塔(重要文化財)
桃山時代・慶長13年(1608)建立。高さ31.8メートル
空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つ












12-03 東叡山 寛永寺(東京都台東区上野公園)
旧寛永寺五重塔(重要文化財)



五重塔は上野動物園内にあるため、600円の入園料(拝観料)を払った






寛永八年(1631)に初建されたこの塔は、第五層のみが銅板葺で、他は瓦葺、高さは地上から先端の宝珠まで36m
現在の塔は寛永十六年(1639)の再建



14-01 金剛山 金乗院 平間寺<川崎大師>(神奈川県川崎市川崎区大師町)
<追加>
八角五重塔(中興塔)
昭和59年の当山吉例大開帳ならびに弘法大師1150年御遠忌を記念し落慶された
境内と諸堂宇との調和を考慮し、さらに真言の様式にかなうよう華麗にして格調ある「八角」としている
八角は最も円に近い建造物の形といわれ、「包容力」「完全性」を象徴している



祈りと平和の像と八角五重塔



やすらぎ橋と八角五重塔



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城谷山 諦應寺(福井県三方上中郡若狭町安賀里33-1)

2022年09月23日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月5日

城谷山 諦應寺
曹洞宗の禅寺
永正3年(1506年)の創建 開山は順翁慶随和尚
道の駅のポスターの写真に衝撃を受け訪れたのが最初で、今回が2回目の訪問になる



前回も今回もそうだが、カーナビの案内では何故か辿り着かない
周辺を走っていると小さな寺の案内板があり、今回もそれが頼りになった



禅宗の寺院の門前に建っている石柱
「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」という結界石が多いが「境内」になっている



山門と大銀杏
左の太い銀杏の木が訪問の大きな目的だが、詳細は後で



鐘楼付山門(若狭町指定文化財)
高さ7m、幅6m、総欅造二階建、入母屋造、桟瓦葺



2階が鐘楼になっている



本堂側から



本堂
本堂に近づくと堂内の清掃していた女性から元気に挨拶された



堂内の様子



撫で仏も光り輝いている



本尊:釈迦如来座像(江戸時代の造立か)



拡大してみた



扁額には寺号の「諦應寺」



襖絵






境内には石仏が点在している









銀杏観音(若狭町指定文化財)
初めて訪れた時、この場所がわからず諦めて駐車場に戻ろうとした時に偶然目に入った
その時の喜びは今も記憶に残っている



樹齢450年
立木仏でいつ彫られたかははっきりしていないが……



30世住職(仏山恵隆和尚:嘉永3年 1850年-53年)が彫刻されたと云い伝えられている



初めて観た時の驚き、喜びは、今回が2回目なので若干薄らいでいるがそれでも感動する












百体地蔵
祈祷後の、お礼参りに祀られた地蔵(250体以上ある)



撮影日 令和4年6月5日
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若狭姫神社(福井県小浜市遠敷65-41)

2022年09月22日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月5日

若狭姫神社(下社)
若狭国一宮
若狭彦神社は、上社・下社の2社からなり、上社を「若狭彦神社」、下社を「若狭姫神社」という
別称として郡名から「遠敷明神」とも呼ばれる



鳥居



木造「明神鳥居」との説明もある



手水舎



社務所



遥拝所
上宮・若狭彦神社と鵜ノ瀬・白石神社
*鵜の瀬は東大寺二月堂のお水取り縁の場所



楼門(福井県指定文化財)
寛保3年(1743年)の造営



楼門(随神門)の先には神門



楼門(随神門)の左右には説明によると「吉祥八人」
八躯を祀る方式は全国唯一



若狭姫神がこの遠敷(おにゅう)の地に鎮座の時の眷属神






祭神 豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)の説明文
*豊玉姫は初代天皇とされる神武天皇の祖母
 イザナギとイザナミから生まれた豊玉彦命(綿津見神)の娘とされている



「遠敷神社(おにゅう)」の額



下社にあたる若狭姫神社は、養老5年(721年)2月10日、上社より分祀し、若狭姫大神とした
上社祭神の若狭彦大神同様、若狭姫大神の姿も唐人のようであったという






若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされている






「乳神様」とよばれる大銀杏






「子種石」と呼ばれる陰陽石



神撰所



末社 日枝神社



中宮神社



「鬼板」 
平成の屋根替えまで、棟の左右両端を飾っていた4枚の鬼板の1枚



本殿(福井県指定文化財)
祭神:豊玉姫命(とよたまひめのみこと) - 「若狭姫神」として祀る



神門(福井県指定文化財)



拝殿内部






今回が2度目の参拝になるが、とても雰囲気のよい神社だ









再び楼門から



初めて訪れたのが何年前になるのか思い出せないが、鳥居前の町並みが変わったような気がする



撮影日 令和4年6月5日
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建康山 空印寺(福井県小浜市小浜男山2)

2022年09月21日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月5日

建康山 空印寺
曹洞宗寺院
境内に八百比丘尼入定の洞穴があることで知られている

薬医門(小浜市指定文化財)
薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたといわれている
また、かつて医者の門として使われたことからとも
門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれている



京極高次が関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭国主となったが、高次没後、息子の京極忠高が京極高次の牌所とし「泰雲寺」を建立
京極家は寛永11年(1634年)松江へ転封となる

後に若狭国小浜藩の初代藩主 酒井忠勝により父酒井忠利の霊骨を移して「建康寺」と称す
酒井忠勝は、第3代将軍・徳川家光から第4代将軍・徳川家綱時代の老中・大老であった



2代藩主酒井忠直が酒井忠勝の七回忌法要を執り行うに当たり寛文8年(1688年)伽藍を増築し「空印寺」となった



扁額には寺号の「空印寺」
空印は酒井忠勝の法号である






酒井家墓所(小浜市指定史跡)



面山瑞芳禅師像
面山 瑞芳(めんざん ずいほう)は曹洞宗中興の祖
空印寺第14世住職
晩年には関東や畿内を行脚し、「建康普説」といった新しい仏法を生み出し、多くの著書を残した












八百比丘尼入定の地
人魚の肉を食べて不老不死の力を得たという八百比丘尼(やおびくに)の民話は全国各地に残っている
小浜市の空印寺は八百比丘尼が入定したという洞窟がある



空印寺「八百比丘尼略縁起」
斉明天皇の白雉5年(654)若狭の国の高橋長者という金持ちの家に、玉のように美しい娘が生まれた
肌は白玉のように容顔美麗で、智徳万人に優れていた。そのため世の人は神仏の再来と崇めた



齢16歳の時、龍王が白髪の翁となって現れ人魚の肉を与えた
姫はこれを食べたところ、不思議なことに幾百歳を経ても16歳の時の容顔から変わることがなかった



120歳にして髪を剃り諸国を巡遊し、ここに50年、あそこに100年と止住し
所々で堂社を修造し、また道路を開き、橋梁を架け、五穀樹木の繁殖を教え、また尊皇奉仏、五常の道を授けた
よって諸国の旧蹟のある所は勿論、広く尊崇を集めた



後花園天皇の宝徳元年(1449)7月26日、京都清水の定水庵で教化を止め、生国の若狭に帰る
後瀬山の山中の神明社の近くに庵を結び住んでいたが、齢800歳にして当寺境内後瀬山麓の大巌窟で入定した









人々は名付けて八百比丘尼、または八百姫とも寿長(ながす)の尼とも、また椿を特に愛し入定したので玉椿の尼とも呼んだ



入定後、祈願する者あれば必ず不思議の霊験があった
洞窟の高さは1.5m、幅2m、奥行5m
以前はもっと奥まで洞窟は延びていたが、国鉄が通ったときに洞窟奥を埋めたという



撮影日 令和4年6月5日
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凌霄山 常高寺(福井県小浜市小浜浅間)

2022年09月20日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月5日

凌霄山 常高寺
臨済宗妙心寺派の寺院
浅井三姉妹の次女「初」、京極高次の正室(常高院)の祈願により建立された

山門
戦国時代、絶世の美女といわれたお市の方と近江の小谷城主浅井長政の間には三人の娘がいた
「戦国悲劇の三姉妹」として有名な、淀殿、お初の方、お江の方だ



常高寺は次女 「気遣いの人」お初の方(京極高次の正室、後の常高院)の寺
三姉妹のなかでは地味な存在ではあるが、以前訪れた時に資料を読み感動し再訪した



本堂
旧本堂は大正年間に焼失
現本堂は平成13年(2001年)に落慶した



歴史ある建築物が好きなので、最初観た時にはがっかりしたことを思い出した









屋内に入る



常高院
系図によると京極高次の母と三姉妹の父の浅井長政は姉と弟で、いとこの関係



京極高次
京極高次の妹 京極竜子が秀吉の側室になったことで高次も取り立てられた
お初の方二十歳の時、秀吉のとりなしで、没落した名門佐々木京極家の嫡男の京極高次のもとに嫁いだ
徳川家と京極家の絆を強固にするという意味もあったようだ



三女「お江」からの手紙
お初には子供がなく、お江の四女を養女(京極忠高の正室)とした



遺言状「かきおきのこと」
常高院が亡くなる1ヶ月程前、寛永10年7月21日の日付のある「かきおきのこと」という文章が残っている
内容は9ケ条にわたっている
はじめの3ケ条は「常高寺」のことについて
万一国替えがあっても寺は続くように、常高寺住職に今後とも目をかけてやってほしいと頼んでいる

次の3ケ条は、自分の身の回りの世話をしてくれた侍女方や侍、小姓たちの身の振り方について述べている
具体的に名前をあげ、小少将、たき、しん太夫、しも、ちゃほは年もいっているので
尼にして常高寺の下に町家のごとく家を建てて住まわしてほしいとのこと……
若いそせん、ようりんという侍女も出家を望んでいるがよくよく気持ちを確かめてからにしてほしい



7条目は、「古奈姫(こなひめ)」という常高院の幼女のことにふれている
関ヶ原の戦いまで桑名城主であった氏家行弘と、その正室で松雲院(京極高次の妹)の子供
氏家行弘は大坂の陣で最後まで大阪城にとどまり淀君とともに自害、その娘を常高院が引き取った
京都の公家に嫁がせたが、自分が亡くなったあとは他にたよることがないだろうからたのむと述べている

8条目は、「浅井作庵」という人物について
三姉妹の父長政には男の子が二人または三人いたようだ。長男の万福丸は殺されたが、ほかに喜八郎という子がいた
この喜八郎は後に、大阪方の増田長盛に仕え淀君のもとで戦った
行き場を失った喜八郎を常高院がかくまい、出家の形をとって浅井作庵として客分待遇とした
今後とも過分の知行を与えて目をかけてやってほしいと低姿勢で頼み込んでいる

母お市の方の三姉妹への遺言は「浅井の血であることを忘れるではない」ということで
常高院としては、浅井の姓を存続したかったのだろう

最後の条は常高院の身の回りの警護にあたっていた侍の名をあげ、今後とも目をかけてやってほしいとしている



常高院の次女



京極家縁の城






NHK 2011年 大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』
この頃はまだ浅井三姉妹に関心がなかったので視聴していない(残念)



主人公の次姉・初役を演じたのが「水川あさみ」



本堂内






本尊:釈迦如来






吹き抜け、トップライトと32本の上り梁が特徴






彫刻



常高院肖像画よりの復元小袖「紫地唐草花文銀欄小袖」









常高院位牌



鐘楼



常高院墓所(小浜市指定史跡)
晩年、江戸に滞在していた常高院は、夫高次の菩提を弔い、さらには父母である浅井長政とお市の方らの供養の為、
寛永7年(1630年)嫡男である忠高が領する小浜の地に一ヵ寺建立を発願し、幸いにも槐堂和尚との知遇を得て開山として迎えた



その3年後の寛永10年(1633年)8月27日、病のため京極家の江戸屋敷にて波乱に富む人生を閉じた



遺骸ははるばると木曽路を越えて小浜城に運ばれ、常高寺において葬儀が執り行われた
城主忠高を始め、家臣もことごとく喪服にて葬列に参加したといわれている



常高院の墓を囲むように侍女たちの墓石が並んでいる



4m余りの宝篋印塔



大坂冬の陣では徳川家康が大阪城を力ずくで攻め落とすことは困難とみて和議の交渉に持ち込んだ
大坂方の使者として選ばれたのが常高院で徳川方からは阿茶の局だった
和議は成立したが結果は歴史が物語っている



豊臣秀頼には2人の子供がいた。国松は徳川に捕らえられ殺されてしまう
女の子は常高院が保護し、徳川方にかけあい、命乞いして、尼として生きる道をとらせることにした
後に、鎌倉の縁切り寺として有名な東慶寺の第20世住職「天秀尼」となった
さだまさしの「縁切寺」が好きで「東慶寺」を訪れたことがあるが、このような歴史的背景があるとは知らなかった



少し距離がある墓所から戻る



常高寺の境内の一角で花菖蒲が約40種2,000株咲く
若狭地方では唯一の花菖蒲の名所で多くの人が鑑賞に訪れるという



撮影日 令和4年6月5日
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福知山城(京都府福知山市字内記)

2022年09月19日 | 
訪問日 令和4年6月4日

福知山城
福知山城は丹波国を平定した明智光秀によって築かれた城
(横山城を石垣づくりの城として改修)
江戸時代には福知山藩の居城



駐車場からはこの橋を通って城内に入る



織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った
丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした



天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が昭和61年(1986年)に復元された









石垣の転用石



五輪塔・宝篋印塔・石仏・石臼・灯籠などが利用されている









美しい石垣だがよく見ると「転用石」が使われていることが分かる









銅門(あかがねもん)番所









城の周辺を散策する(石垣を注視してしまう)






「野面積み」「乱石積み」と呼ばれる未加工の自然石が積み上げられている



この石段を上がり城内に向かう



鉄砲石






城内に入る
福知山市郷土資料館の施設となっている

「明智軍記」から抜粋
左ページ1行目
光秀が愛宕百韻で詠んだ「トキハ今 アメガ下知るル五月哉」



「山崎の戦い」



「光秀辞世の句」



木造明智光秀坐像(日下寛治 1959年作 )



「絵本豊富勲功記」より抜粋
「内助の功の図」



「信長嫌て光秀を打擲する図」
快川紹喜が燃え盛る三門の上で「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と喝破したことに感銘を受け恵林寺を訪れたことがある



信長が光秀を打擲する場面との結びつきを思い出すことができた



「三宅藤兵衛 光秀が生害を止める図」







天守閣で将棋の「竜王戦」の対局が行われた






将棋界も顔ぶれが変わり、藤井聡太へ



天守閣からの眺望






豊磐井(とよいわいのい)









いつもは北海道に帰るために舞鶴港へ向かう通過点であったが立ち寄ることができてよかった



撮影日 令和4年6月4日
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補陀洛山 観音寺(京都府福知山市観音寺1067)

2022年09月18日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月4日

補陀洛山 観音寺(あじさい寺)
高野山真言宗の寺院 寺のHPや案内では「華観音寺」になっている
関西花の寺二十五霊場第1番札所(丹波のあじさい寺として知られている)



美しい境内図



仁王門



金剛力士像(京都府暫定登録文化財)
日差しがガラスに反射して苦労した


















参道は一方通行で、紫陽花の季節には早すぎたようだ



所々に申し訳なさそうに花が開いている



華観音寺の見所



庭に放されている「鶏」もこの寺の名物



護摩堂



七観音めぐりのお寺
病気平癒や縁結びなどの諸願成就を祈祷してお参りすると 数々の奇跡が起こっているとのこと

途中にある石仏(わらべ仏)とその言葉にも癒やされる



① 千手観音菩薩



② 馬頭観音菩薩



無常橋



③ 十一面観音菩薩



④ 聖観音菩薩



所々に紫陽花が咲いている



観音様の霊力で眼病が治り、再び光明を得たお礼にと
七色に変化する光の花あじさいを数本植樹されたのがあじさい寺のはじまりだという



⑤ 如意輪観音菩薩



毎年6月~7月には白・青・紫・ピンクのあじさいが鮮やかに咲き乱れ、花浄土と呼ぶのにふさわしい佇まいをみせる









⑥ 不空羂索観音菩薩









⑦ 准胝観音菩薩



慈母観音(あじさい観音)
七観音めぐりを終えると慈母観音が迎えてくれる



台座の含蓄ある言葉







観音堂(京都府指定文化財)
寺伝によれば、養老4年(720年)、法道仙人による開山
本尊:本尊十一面千手観音菩薩



応和元年(961年)空也により中興され七堂伽藍が建立されたと伝える
天正4年(1576年)明智光秀による焼き討ちにより焼失
天明4年(1784年)大聖院・多聞院・本堂が再建された









だるまおみくじ





















わらべ仏も残り少なくなってきた






八体佛



弁天堂






庚申堂



観音杉



開山 法道仙人像



石彫家 長岡和慶の作品



鐘楼(京都府指定文化財)
切妻造、桟瓦葺 
寛政元年(1789年)の建立



前の梵鐘は寛文6年(1666年)は戦時下にて供出
現梵鐘は昭和25年、壇信徒による喜捨の浄財で鋳造









手水舎



山門<表門>(京都府指定文化財)
両袖付きの棟門で屋根を段違いに見せる中国・民時代の唐様建築
関西地方には例がなく、長崎の崇福寺、山口の東光寺、岡山の閑谷学校の校門にみられる






大聖院






緑のアーチを通り駐車場に戻る



撮影日 令和4年6月4日
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竹田城(兵庫県朝来市和田山町竹田)

2022年09月16日 | 
訪問日 令和4年6月4日

竹田城(別名:虎臥城)
平成25年11月に一度訪れたことがある
GoogleのCMで竹田城跡が取り上げられることにより、観光客が約60万人に激増した時期である
当時書いたブログの一部だが
朝の7時半頃には竹田城へと続く道にたどりついたが、車が渋滞していてというよりまったく動かない
Uターンできる場所もなく、反対車線に入り強引に引き返した

車中泊した道の駅から近かったこともあり、現在はどのような状況なのか確認したくて立ち寄った



駅内にある観光課の女性に話しを聞き、立雲峡(城の南東)を目指すことにした
以前は狭い砂利道の山道で危険回避のためタクシーを利用した場所である
現在は舗装され道幅も広く快適に走れるようになっている

環境整備協力金300円を納め山道を歩く



運動不足で直ぐ呼吸が苦しくなる
すると、休息するのにふさわしい岩が現れる



「立雲峡」には3つの展望台がある



第3展望台は下から眺める場所にある(写真右下に町並み)






第2展望台は目線と同じ高さで



単調なので木の枝を入れてみた



第1展望台は見下ろす場所にありここから15分ほど上る
迷ったが15mほど歩いたところで行くのを止めた



戻った場所の駐車場に素晴らしい写真があったので撮して気分を味わった
雲海に浮かぶ城跡を眺める事も出来る条件は
 日本海に高気圧の中心があり、よく晴れている
 朝方と日中の気温の差が大きい
 風が無い、または弱い
 但馬南部地方の濃霧注意報が参考になる




平成25年(2013年)に訪れた時の写真である
この日は雨模様で雲が多く発生していた
タクシーの運転手に「天空の城」が撮れるスポットに案内を頼んだ






車で行ける場所は竹田城と同じ高さの場所で、その運転手は写真の撮れる場所まで案内してくれた



その場所から望遠レンズで撮ったものだが雲が多く何も見えない



とりあえず「ここに来た」という証拠に撮ってみた
運転手の話では写真を撮る人たちは前日の夜から陣取っているという




撮影日 令和4年6月4日(平成25年11月16日)
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姫路城(兵庫県姫路市本町)

2022年09月15日 | 
訪問日 令和4年6月3日

世界遺産 姫路城(別名:白鷺城)
この日の朝には予定していなかったが急遽変更し姫路城を選択した
朝にタイヤがバーストしてホイールにも傷が入り応急処置はしてもらったが不安があったので人の多い場所を選んだ






2年前に5つある国宝の城廻りを終えたが、最後が姫路城だった
国宝に指定された古い順だと、姫路城→松本城→彦根城→犬山城→松江城となる
日本最古の天守は丸岡城。日本三大名城となると、名古屋城・熊本城・姫路城のようだ



池田輝政が築いた姫 路城は、全体がらせん式の縄張りになっていて、内曲輪、中曲輪、外曲輪に分けられている
その面積は約233㌶。甲子園球場の約60倍の広さを持つ



右側が本丸で



左側が西の丸



撮影場所を探して歩いていると、多くの小学生が絵を描いている場所があった



子供達の感性は鋭い、その場所から撮ってみた



有料場所に入城する
要所要所にガイドがいるが外国人だった
これまでも寺院で外国人から説明を受けたことがあるが不思議な感覚だ



前半は石垣を中心に












「姥が石」という伝説が姫路城に残っている
羽柴秀吉が3層の天守を持つ姫路城を築いたとき、 石垣の石が集まらず 困っていた



秀吉に、城下で焼きもちを売る老婆が、店にあった古い石臼を「せめてこれでもお役にたてれば」と献上
この話がたちまち城下の評判になり、人々が競って石を寄進したという



城内では各階に案内板があるが、ガイドに話しを聞く方が楽しい



「東大柱」
姫路城大天守の東西の心柱は、築城当時は東が樅(もみ)の1本材、西は3階床上部分で2本継ぎされていた



多くの城の階段は狭くて急だが、姫路城は比較的楽だ
この上りの階段は築城当時のもので、下りは昭和の時代に設置されたもの



ガイドから案内された普段はあまり注視しない階段の裏話し
この手すりの部分だが高度な匠の技術が使われているという
釘を使わずに造られている(匠の技)
よく見ると確かに凄い木組みになっている



最上階にある神社
「刑部神社」は姫路城が姫山に築かれる以前より、姫山にあった「小刑部宮」という
地元の人たちの信仰の対象となっていた地主神を祀ったもの



額には「刑部大神(おさかべおおかみ)」
火災・災害などの災いの神として崇められている



最上階のガイドは若い男性で普段通り過ぎる場所に案内してくれた
この写真も何かあったのだが忘れた(金具がハート型に抜かれていることだったか)



木に穴が空いた時など、埋木という技術で修復するがここにも匠の技が……



この星形が一番高度な技術だという



これは男性器だが、どの時代にも洒落た男がいるものだ
各所に花などもあり探すと楽しいものだ



鯱も間近で見ることができる
遠くから観ると真っ白な城だが実際は灰色部分も多く、白の漆喰部分だけが見えているようだ



この場所にあるベンチで休んでいると老齢の女性から写真を頼まれた
千葉県から孫の運動会を見に来たという
話しを聞くと亡くなった姉の家の近くに住んでいるということがわかり話しが盛り上がった



撮影日 令和4年6月3日
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斑鳩寺(兵庫県揖保郡太子町鵤709)

2022年09月14日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月3日

斑鳩寺
聖徳太子開基 1400年の歴史をもつ寺院
天台宗の寺院



旅に出る際、また旅行先では不慮の事故のことは常に考えて行動している
今回は残念だが前を走る車が急に停まり右折しようとした車体との接触を避けようと左側に回避
タイヤの横の部分が縁石に接触し前後輪ともバーストしてしまった



片側1車線の道路で通勤時間ということもあり、不注意から大渋滞を起こしてしまった
パトカー3台による交通整理で事なきを得たが、対応していただいた警察官はとても親切で感謝の気持ちでいっぱいだ



警察官・レッカー車の運転手・トヨタの整備員など多くの方々の一隅を照らす活躍により
半ば諦めていた旅も継続できるようになった(大感謝)



仁王門(兵庫県指定文化財)
寛文13年(1673年)の再建



仁王像









今回の仁王像は私の心境を察してか、何時になく寂しそうな表情をしている









山王社(兵庫県指定文化財)
明暦2年(1656年)の再建



三重塔(重要文化財)
室町後期 永禄8年(1565年)に龍野城主赤松政秀によって再建



今回が4度目の参拝になる。前回は「蚤の市」であったが、いつも何かの行事に重なっている
そのため、塔の前に車が駐まっていたりして塔全体を撮ることはできなかった



今回は他に参拝者も無く、(日差しは強すぎたが)良い条件で撮ることができた






講堂(太子町指定文化財)
弘治2年(1556)に再建、明和6年再修造






賓頭盧尊者






鐘楼(兵庫県指定文化財)
天正20年(1592年)に赤松広英によって再建
元禄6年(1693年)大修理






聖徳殿前殿(兵庫県指定文化財)
天文20年(1551年)再建
寛文5年(1665年)大修理






聖徳殿前殿を横から(中殿・後殿へと続く)



聖徳殿中殿(登録有形文化財)
大正5年 (1916年)の建立



聖徳殿後殿(登録有形文化財)
大正5年 (1916年)の建立
太子十六歳像を祀る(拝観は事前予約)
法隆寺夢殿を参考にした裳階付八角二重円堂



神馬



聖徳太子御二歳尊像









撮影日 令和4年6月3日
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武蔵の里(岡山県美作市宮本)

2022年09月13日 | 名所・旧跡
訪問日 令和4年6月2日

武蔵の里
宮本武蔵生誕伝承地
宮本武蔵ゆかりという伝承があるとされる旧跡、名所、顕彰施設などがある

吉川英治文学祈念碑
剣聖宮本武蔵は天正12年(1584年)宮本村(現 美作市宮本)に生まれた
文武両道の達人で郷土の誇りとして語り伝えられてきた
昭和に入り、朝日新聞連載小説「宮本武蔵」によって、一躍日本の、いや世界の宮本武蔵になった



武蔵の生家
父は平田無二斎、祖父平田将監は十手術の達人で、武蔵は幼少の頃から武術にたけていた
13歳の時、新当流の有馬喜兵衛に勝利し生家を出て生涯戻ることはなかった









昭和17年(1942年)火災にて焼失し現在の家になる
大黒柱の位置は昔と変わっていないという



奥に見える家は武蔵の姉の嫁ぎ先の西尾家



武蔵の幼名は辨助(べんのすけ)
大好きな武蔵坊弁慶名前をもらって「武蔵(たけぞう)」と名乗っていた




こちらは武蔵の姉が嫁いだ家



西尾家も新免家もその子孫が引き継いでいる



武蔵神社
昭和46年(1971年)全国1300余名の浄財により建立












狛犬






拝殿






宮本武蔵肖像を模した奉納額






彫書芸術の創始者 彫無季(本名 河野省三)謹作書






本殿



著書『五輪書』の中では新免武蔵守・藤原玄信と名乗っている






武蔵の墓



武蔵の墓の前で観光協会の人に声をかけられ歴史について説明して頂いた
大河ドラマで武蔵が放映されていた時は毎日20台以上の観光バスが来ていたという
今はコロナの影響もありほとんどの施設は閉鎖されたそうだ



平田無二斉夫婦のものとされる墓の隣に建立された



武蔵の墓
武蔵の養子・宮本伊織の手により熊本から分骨したものとされる



「賢正院玄信二天居士 」と刻まれている



私と同じように武蔵観は吉川英治だという観光協会の人
話しが面白くもう一度本を読みたくなってきた
彼がいなければ武蔵の里も味気ないものになっていただけに嬉しい(感謝)



讃甘神社(さのもじんじゃ)
観光協会の人に案内された



額には社号の「讃甘神社」(さのもじんじゃ)と読めなかった



武蔵が、神社神主の太鼓を鳴らすバチ捌きにヒントを得て、二天一流を編み出したと伝わる



拝殿と奉納額












武蔵は魅力的な人物で映画やドラマを視たり、小説も読んできた
吉岡一門と戦った後に潜んでいた東寺の横にある観智院、五輪書を書いた霊巌洞も訪れた
幼少期に過ごしたこの場の空気も吸うことができた



撮影日 令和4年6月2日
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